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このように外界を標準として外界を判断する事は何も物理学者をまたない、だれでも日常知らず知らずに行っている事である。ある生まれつき盲目の人が生長後手術を受けて眼瞼(まぶた)を切開し、始めて浮き世の光を見た時に、限界にある物象はすべて自分の目の表面に糊着したものとしか思えなかったそうである。こういう無経験な純粋な感覚のみにたよれば一間前にある一尺の棒と十間の距離にある同様な棒とは全く別物としか見えないに相違ない。仰向けた茶わんとうつ向けた同じ茶わんとが同一物である事を自得するまでにはかなりな経験を重ねなければならぬ。吾人普通の感官を備えた人間がこのような相違に気のつかぬのは遺伝や長い間の経験によって、外界の標準を外界に置いて非常に複雑な修練と無意識的の推理を経て来た結果にほかならぬのであろう。
吾人の理性に訴えて描き出す幾何的の空間、至るところ均等で等向的な性質を備えた空間は吾人の視感に直接訴える空間とは恐ろしくかけ離れたものである。視感的空間では仰向きの茶わんとうつ向きの茶わん、一里を隔てた山と脚下の山とはあまりに相違したものである。紙面に描いた四角でもその傾き方で全く別な感覚を起してもよいはずである。しかるにこのような相違を怪しまず当然としているのは、吾人が主観を離れた幾何的の空間という標準を無意識あるいは有意識的に持っているためである。
同様な事は聴官についてもある。雷鳴の音の波の振幅は多くの場合に耳の近くで雨戸を繰る音に比べて大きなものではないのに雷の音は著しく大きいと考えるのはやはり直接の感官を無視して音響の強度の距離と共に感ずる物理的方則を標準としているのである。
このような事は別に取り立てて言うほどでないかもしれぬがしかしこの主観を無視する程度は人間の文明の程度によってだんだんに変化して来るものである。絵画に陰影を施しあるいは透視画法を用いる事はある国民には普通であるのに他の国民には容易に了解ができないのもその根元は直接感覚によるのと、感覚を離れた観念によるとの差と考える事もできるので、少なくもこの点だけにおいては未開人種や子供の描く観念的な絵は泰西名匠の絵画よりもある意味で科学的であると言わねばならない。ただしその概念が人々随意に異なり普遍的でない事は争われぬ。
以上の程度までは物理学者も素人もあまり変わりはないようであるが、物理学者と素人と異なる所は普通人間に存ずるこのような感覚をはなれた見方をどこまでも徹底させて行く点にある。物理学発達の初期には物理学者の見方はまだそれほど世人と離れていなかった。たとえば音響というような現象でも昔は全く人間の聴官に訴える感覚的の音を考えていたのが、だんだんに物体の振動ならびにそのために起こる気波という客観的なものを考えるようになり「聞こえぬ音」というような珍奇な言葉が生じて来た。今日純粋物理学の立場から言えば感覚に関した音という概念はもはや消滅したわけであるが因習の惰性で今日でも音響学という名前が物理学の中に存している。今日ではむしろ弾性体振動学とでもいうべきであろう(生理的音響学は別として)。光の感覚でも同様である。光覚に関する問題は生理学の領分に譲って物理学では非人間的な電磁波を考えるのみである。熱の輻射も無線電信の電波も一つの連続系の部分になってしまって光という言葉の無意味なために今では輻射線という言葉に蹴落とされてしまったのである。
(『寺田寅彦随筆集』 第一巻 小宮豊隆編 より )
味気もそっけもない話ですね。
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寺田寅彦の随筆
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