平成17年4月6日から平成23年9月6日までのブログ

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寺田寅彦の随筆

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物理学と感覚 7

 選択という言語は多くは眼前に種々の可能が排列されている時に用いられるものである。実際科学上の概念にそのような選択の余地があるであろうか、これは大切な問題である。自分は現在の物理学の概念をことごとく改造して従来よりもいっそう思考の経済上有利な体系ができうるかどうか到底想像する事はできないが、しかし少なくも物理学の従来の歴史から見て、斯学の発展と共に種々の概念が改造されあるいは新たに構成されまた改造されて来た事は事実である。光や音の観念の変化は前にも述べたとおりである。温度の観念でも昔の触感によった時代から特殊物質の膨張によった時代を経て今日の熱力学的の絶対温度に到着するまでの経路を通覧すれば、ある時代に夢想だもできぬような考えが将来に起こりうる事は明らかである。もっと新しい例を取れば質量に関する観念がある。質量は物体に含まるる実体の量だというように考えたは昔の事で、後にむしろ力の概念が先になって、物体に力が働いた時に受ける加速度を定める係数というふうに解釈した実証論者もある(寺田寅彦自身は、そういう立場を取らずに、あくまでも紹介者としての立場を貫いていて、科学者としての実績はあまり残していない)。電子説が勢いを得てからは運動せる電気がすなわち質量と考えてすべての質量を電気的に解釈しようとした。さらに相対性原理の結果としてすべてのエネルギーは質量を有すると同等な作用を示すところから、逆にすべての物質はすなわちエネルギーであると考えようという試みもあるくらいである。
 原子内部に関する研究に古典的力学を応用しようとして失敗を重ねた結果は大胆な素量説の提出を促した。今日のところなかなか両者の調停はできそうもない。しかしあらゆる方則は元来経験的なもので前世の約束事でもなんでもない事を思い出せば素量仮説が確立した方則となりえぬという道理もない。もし素量説が勝利を占めて旧物理学がことごとくだめになるような事はあるまいが、従来用いられた諸概念に少なからぬ変動が来るであろうと予想するのは至当であるまいか。
 少なくもわれらは従来経験的事実の要求に応じて、物理学的概念の内容にたびたび改革あるいは修繕を施して来た。これらの経験的事実の集まり方はそれまでの歴史に無関係ではない。甲の事実は、乙丙の事実の発見を促す。しこうして乙が先に発見されるか丙が先に発見されるかによってその次に来る丙丁の事実の解釈を異にする場合は可能ではあるまいか。それはどうでもよいとして、一つ極端な想像をして見れば自分の今言わんとしている事を説明する事ができよう。すなわちかりにここに微小な人間があって物質分子の間に立ち交じり原子内のエレクトロン(電子)の運動を目睹(目撃)しているがその視力は分子距離以外に及ばぬと想像する。このような人間の力学が吾人のと同様であれば吾人の原子的現象の説明は比較的容易であろうが、実際素量説などの今日勢いを得て来たことから考えても原子距離における引斥力の方則をニュートン(万有引力)やクーロンの方則(クーロンの法則)と同じものとは考えがたい。そうすればこの原子的人間の物理の方則は吾人の方則とよほど違った発展をするに相違ない(電子内のエレクトロンの話はミクロの世界なんだけど、原子的人間ということは小説のストーリーとしては面白い)。
 前に選択といったのは必ずしも吾人にとって選択の多様なという意味ではない。ただ人間という特別なものの便宜を標準として選択するという意味である。それでこういう意味で現在の物理学はたしかに人工的な造営物であってその発展の順序にも常に人間の要求や歴史が影響する事は争われぬ事実である。
 物理学を感覚に無関心にするという事はおそらく単に一つの見方を現わす見かけの意味であろう。この簡単な言葉に迷わされて感覚というものの基礎的の意義効用を忘れるのはむしろ極端な人間中心主義でかえって自然を蔑視したものとも言われるのである。
 
(『寺田寅彦随筆集』 第一巻 小宮豊隆編 より )
 
(大正六年十一月、東洋学芸雑誌)
 
 
 現在では、物理学を感覚に無関心にするという言い方はそもそもしない。それは、感覚というものがどういう現象によってできているかということが解明されているからだ。しかし、それは人体を形成する現象が解明されただけに過ぎず、人間の言うことについては、関与しない。電子顕微鏡が発明される前の話である。火傷をしたときなんかが、物理学と感覚との接点である・・・。凍傷とかも同じである。ふつうの人たちは、そのようなことが起きることを避ける傾向があるから、ほとんど関係のない世界ではある。
 1927年に電子顕微鏡が発明されて、まさかそんな世界があろうとは?といった未知との遭遇に出くわした世紀が二十世紀であった。それまでは、俺が見ていることが正しいと言えた時代から、それ以外の世界もあるという時代になってしまった。思い込みを捨てなければ、物事の本質がつかめない。電子顕微鏡で見える世界があるということがわかった時代は、文学者にとって最悪の事態だったのだ。二十世紀の初頭(昭和初期)には、心よりも物質が勝ってしまった時代である。その後に、待ち構えていたのは戦争であった。科学は疑うことなんだけど、人間の心を疑ってしまった。ここにそもそもの間違いがある。信なくば立たずという。これが崩れたら、人間関係というものが崩壊して、人間不信の争いの世の中になる。そういうことが起こらないために、やっぱり倫理道徳は必要なんである。人間の社会は、人間の社会である。
 人間の心を取り戻さない限りは、二十一世紀は良い社会にはならない。二十世紀初頭と同じようにならないように、人間の心を取り戻さねばならない。戦後、文学者たちは、必死で江戸時代のことを残そうとした。それは、戦前よりも心が良かったからである。宗教・神経衰弱・自殺といった漱石の近代よりは、心は、江戸時代のほうがかなりましである。物質面では豊かになったけど、精神面の喪失がおこるということは、二十世紀の戦争への道と同じである。これを繰り返してはならない。科学が強くなったから、心のことを文学と呼ぶようになった。生命を物質的にとらえようとしたら、心というものはなくなるけど、人間が生きていくということを優先しなければならないから、心というものを大事にしなければならない。そうでなければ、人間は私利私欲のために生きる獣になりさがっていしまうからだ。金銭欲と物欲にしか興味ない人間の世界が二十一世紀であっては困るのだ。金銭欲とか物欲というものは、人間の三大欲求ではないく、理性欲というものである。言葉よりも数字を重んじることが、二十一世紀であってはいけない。数字だけになってしまえば、もはや発明・発見は起こらない。これは、科学の危機でもあり、文学の危機でもあり、日本の危機である。話がずれたけど、数字ということが、日本の発展を阻害している。言葉で考えずに、数字で考えることは、複雑系の現在においては頓挫していることを忘れてはならない。それが、貨幣にすりかわってしまっている。
 
                                      霧山人

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