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孔子曰く、憤を発し食を忘れ、老の将に至らんとするを知らず。
古人云く、「凡そ大道を学ばんと欲する者は、先づ須らく大憤志・大疑団・大信根 を具備すべきは、猶ほ鼎に三足有るがごとし。一を欠けば則ち達成せず」と。固に 然り。而して発憤を最も主と為す。発憤洪大なれば、悟る所も洪大なり。発憤浅小 なれば、悟る所も浅小なり。宣尼は発憤して食を忘れ、能仁は発憤して山に入り、 孟軻は断機に依りて発憤し、神光は発憤して臂を断つ。是れ皆な発憤の洪大なる 者なり。古来大道を担当するの英傑は発憤の一事を成さざる莫し。
抑々道は高なり峻なり。予が如き謭劣の輩の企て及ぶ所以の者に非ず。唯だ専 ら発憤の志を立つるを以て竟に志願を成就し以て平生を慶快するに至る。謹んで 博学高才の人に白す。若し吾が大教の誹駁せんと欲せば、須らく発憤して吾が禅 海に入り、先づ自己の本性を見得すべし。而して広く仏祖の書を読み、徧く其の理 を究め、然る後に間然す可き処有らば、唾して之を罵倒するも固に好し。若し未だ 嘗て其の境涯を踏まずして漫りに之を論ずれば、是れ盲評瞎論なり。吾総て取ら ず。昔宋の仁宗の朝、李覯なる者有り、欧陽修と韓愈の排仏を慕ふ。時に大儒と 称す。明教嵩を一見して後、意を仏書に留め、研究之を久しうし、乃ち喟然として嘆 じて曰く、「吾が輩の議論、尚ほ未だ一巻の般若心経にも及ばず。仏教豈に知り易 からんや」と。看よ真個境界を歴る底の人の論は幡然常情を超出すること是くの如 し。
(『禅海一瀾』 今北洪川 著 より )
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