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冉有曰く、「夫子 衛の君を為(たす)くるか。」
子貢曰く、「諾、吾将に之を問はんとす。」
入りて曰く、「伯夷叔斉は何人ぞや。」
曰く、「古の賢人なり。」
曰く、「怨みたりや。」
曰く、「仁を求めて仁を得たり。又何ぞ怨みん。」
出でて曰く、「夫子は為けじ。」
(『論語』 述而第七 より )
冉有が子貢に「先生(孔子をさす)は現在の衛(出公輒)をお助けになりましょうか。」と言ったので、子貢は「さよう、私がお聞き申してみましょう。」と言って、孔子の室に入って孔子に面会して、子貢「伯夷叔斉はいかなる人物でございますか。孔子「古の賢人である。」
伯夷叔斉の二人は孤竹という所の君の子である。父が遺言して弟の叔斉を立てることにしたが、父の死後、叔斉は兄の伯夷に譲った。伯夷は父の命であるといって遂に逃れ去った。叔斉もまた立たないで国を去ったから、国人は中の子を立てた。この二人は後に周の武王が君の殷の紂王を討つのを諌め、周の天下になってからは、周の粟を食うことを恥じて、首陽山に隠れて餓死したのである。子貢は衛君父子の国を争うのと伯夷叔斉の国を譲るのと全く相反しているから、伯夷叔斉のことを問うて孔子の意中を知ろうとし、孔子は伯夷叔斉のことを問うて孔子の意中を知ろうとし、孔子は伯夷叔斉の一は父の命を重んじ一は兄を重んじて共に国を逃れた行いを賢人であると評したのである。
子貢は更に「二人は国を譲って後、心に怨み悔ゆることはありますまいか。」と問う。孔子「二人は国を譲って仁を行おうと求めて仁を行い得たのである。又何で怨み悔ゆることがあろう。」
子貢はもし伯夷叔斉が国を譲った後心に怨み悔ゆることがあるならば、衛の君輒(ちょう)が父を拒むのもなお恕(じょ・ゆる)すべき所があると思ったけれども、孔子が前には伯夷叔斉を賢人であるといい、後に怨み悔いていないと言われたので、孔子の意中を悟って、孔子の室から退出して、冉有に向って「先生は衛の君をお助けにはなりますまい。」と言った。
孔子の古の人物を論ずるのを見て、子貢が、衛君父子の相争う際に、孔子のいかに身を処するかを知ったことを述べたのである。
衛の君は出公輒(しゅっこうちょう)という人である。これより先に、衛の霊公という君が、その世継ぎの蒯聵(かいかい)を追い出したので、霊公の薨去した後、国人は蒯聵の子の輒(ちょう)を立てて衛の君とした。これが出公輒である。時に晋の国では蒯聵を納れて衛の君としようとしたから、輒はこれを拒んで国へ入れまいとして父子相争うことになった。当時孔子は衛に居り、衛の人は蒯聵は父霊公から罪せられた人であるし、輒は霊公の嫡孫であるから、輒が君となるのが当然だと考えていたから冉有は孔子がいかに考えられるかを疑って、子貢に問うたのである。
君子はそのいる国の大夫さえも誹らないから、ましてその君を誹るようなことはしない。故に子貢は直接に衛の君のことを問わないで、伯夷・叔斉のことを問うたのである。(朱子の説)
この話を読んで、まず脳裏に浮かんだのは、日本神話の国譲りである。大国主命が高天原に国を譲ったのは、仁を行うためである。そこに怨みや悔いがあるわけがないのだ。全面戦争になれば、苦しむのは民草である。自らが身を退くことによって、多くの民草の命が救われたのならば、大国主は仁を得たことになるので、どうしてそこに恨みや悔いが残っているであろうか。同じように、大政奉還での政権返上や昭和天皇の人間宣言も仁を行おうとし仁を得たのである。国民は、それを理解しないから、天皇陛下がいまだに国家を欲し国民を支配しようと望んでいるなんでいう戯言をいうのだ。だから、天皇陛下を利用して地位と富を得ようと思う人たちがいるのであろうと考えるのだ。日本は国民国家であるのだ。
国家を守り国民生活をよくしようとするのが政府の役割であり、国会でもあるのに、いまだに衛君父子のような国を争うようなことばかりしている。恥を知るべきであろう。それよりも、伯夷叔斉のように、国を去ってもらったほうが国民にとってどれほどましであろうかと思う。国民をそのような争いにまきこむくらいならば、古の賢人のように国を去ってもらったほうがましである。だから、「夫子は助けじ。」という。
霧山人
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悠塾の心得5
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西郷隆盛も伯夷叔斉と同じである。
2011/1/27(木) 午後 2:14 [ 霧山人 ]