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たまゆら、再び。

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 たまゆら。魂が顕れたもの。丸い白い球体。“オーブ”http://hasuhana.com/gallery-i.htm

川端康成の『たまゆら』
http://blogs.yahoo.co.jp/rkfjj865/MYBLOG/yblog.html?fid=0&m=lc&sk=0&sv=%A4%BF%A4%DE%A4%E6%A4%E9

ごめんね。木下さん。

                                 中村為彦

『たまゆら』読了観

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 川端康成の『たまゆら』を読了した。川端康成は、この小説を未完で終えている。それでも、テレビド

ラマ化されたのは、不思議なことである。もう、あの新婚ブームから四十年が経とうとしている。これも

何かの縁かもしれない。しかし、川端康成は、『古事記』のイザナギ・イザナミには触れていたけれど、

肝心な日向神話、天孫三代の物語には触れなかった。つまり、完全に宮崎を舞台に小説を作り損ねたのだ

った。どちらかというと、最初に出て来た新婚夫婦が主役であったほうが、いい話になったのかもしれな

い。しかし、晩年の作家には、そこまでの感受性はなかったようである。直木が川端康成ということは、

この小説は私小説ということなんだよね。だから、宮崎にずっとすんでいないからこそ、宮崎の描写だけ

で、宮崎の本質を書き表すだけの余裕がなかったにちがいない。そうなれば、『たまゆら』の続きを書く

というか、その前半部に意志を継ぐものは、宮崎の人間でなければならないだろう。そうでなくても、南

九州の人間でなければならない。

                               霧山人

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 「ふん。あき子はわが家のたからものの、勾玉をうまいことせしめたから、(勾玉)とか、あるひは勾玉の古歌を書いておいてあげるかね。僕が会社をやめた時、いちばんなんにも言はなかつたのはあき子だつた。やさしいいたはりを、胸にひそめてゐてくれるのが、よくわかつたね。」
 「そんなにおつしやつていただくことはないんですけれど、あの時、ああ、わたしたち家族を養つて来て下さつたのは、お父さま一人なんだな、お父さまただ一人だつたんだなと、あき子ははじめてほんたうにわかつて、じつにびつくりしたんです。あたしなんか、お父さまのおかげで、世の荒波にあたることからも守られて来たし、雨風にさらされることからもかばつて来た。さうだつたと、あの時、はじめて知つたんですわ。骨身にこたへました。それをみんな、お父さまお一人の肩に重みをかけて……。なぜなのかしらと思ふと、あたしはひとことも言へませんでしたの。心臓から動脈に、涙が流れてとまらぬやうでしたわ。これから、あたしの血はみんなお父さまのための涙に変わつてしまつていいと考へました。自分の身でぶつつかれば、世間はあまくないんですものね。」
 「まあね。」
 「その時、疑つてみたんですけれど、人間ほど長く親、ことに父親が子どもの保育と庇護をつづけるものはないんぢやないでせうか。動物は早く子どもを突つ放してしまふでせう。獅子が子獅子を谷に落すのなんかは、話にしても。」
 「ふん。それは動物の生育の年月と、寿命によることだらうね。」
 「大学、高等学校なんて、長い教育の義務を負はされるのは、人間の親だけですわ。なぜ、子どもを大学まで卒業させて、就職の世話もするのでせう。娘の嫁入り支度なんてものまでする生きものは、人間の
ほかにあるでせうか。」
 「ほう、嫁入り支度ね?それは、今言はれるまで考へてもみなかつたが、なるほど、ほかの動物にはなささうだな。結婚式とか、その披露宴なんてものもね。」

 ( 『たまゆら』 川端康成 より )

 鵜戸神宮に取材兼お参りして、帰る途中、高校生くらいの女の子が、自分の父親に向かって、

「お父さんは、いつでも、運が悪いからね。」と言っているのを聞いた。

 吾輩はつぶやいた。「それは、君の悪運を全部、父さんが背負っているからだね。」

 聞こえたかどうかわからないけど、父親に守られていることに気づかない娘たちがいる。

 親というものは、一体何だろうか。親孝行したい時に、親はなし。

 失職しているにもかかわらず、こんなことばかりしている自分は腹立たしい。

 そして、このことは今まで何回も経験してきたことだった。父にも母にも、愛想を尽かされる罵倒をあ

びせながらも、他に行くとことなく、仕事の当てもなく、只只管、文章を写し、浮ぶ言葉を連ねている。

 吾輩は思う。いつまで、親を働かさねばならないだろうか。さらに、親の世代が、年寄りになっても、

働き続けねばならない社会を訝しく思った。吾輩は、父と同年代の婆さんに仕事を取られた。この矛盾は

一体、何だろう。年寄りが働いて、若者が遊びまわる。このような社会は健全なんであろうか。

 親を養いたくても、仕事がない。これは亡国の序章だ。吾輩は、また転げ落ち、再び社会の矛盾に落と

し込まれた。この国の希望って何だろう。あわれだよね。仕事がなければ、結婚なんて幻想なんだよ。

                              霧山人

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 「宮崎の旅を思ひ出すよ。」と直木は目をつぶつた。「えびの高原の赤松なんかね。えびの高原は硫黄が噴き出してゐて、そんな荒れた感じもあるし、まはりの山も京の山よりは強いが、赤松が多くてね、朝、ホテルの窓をあけると、赤松の群れの幹を、日の照らしてゐるのが実に美しいんだ。あの赤松の幹の色は、京都の赤松の幹の色より美しいかもしれんな。」
 「えびの高原の赤松の絵はがきを、いただきましたわね。」と、さち子も言つた。
 「絵はがきでもきれいだつたらう。」
 「はい。」
 「この高原の秋が、えび色に美しいといふ説もあるんだけれど。」と、直木は思ひ出す顔つきで、
 「えびの高原から、高千穂町に行つて、それから山道を越えて、大分県の竹田町に出て帰つて来たんだつたな。高千穂町のことは、帰つた時に話したね。天照大御神の高天原と天の岩戸と、八百万の神々の神集ひした天の安河原と、天孫降臨の高千穂峰と、その跡が、高千穂町にそろつてゐるといふのは、神話、伝説としても、欲張りすぎて、理に合はない。町は観光でにぎはつて、神話の地らしくないが、ところどころに小高い森か林かの木立には、神話らしい姿があつたね。ここの高千穂夜神楽や、民謡の刈干切り唄は、テレビジヨンで、さち子やあき子も知つてゐるだらう。」
 「はい。」と、あき子は答へた。
 「ところが高千穂峰は、ここと、たしか鹿児島県と二つあるんだ。伝説にはさういふことが多いんだな。卑弥呼や壱与の邪馬台国は、中国の古書の記録によつて、たしかに実在したとは明らかなんだが、それが九州のどこであつたか、まだ定まつた説がないんだね。そんな古いことぢやなく、『荒城の月』で、あの唱歌ね、あれは土井晩翠が、竹田町の城あとで作詩したやうに思はれて、その文学碑も建つてゐるが、晩翠は仙台であの詩を書いたらしいね。作曲家の滝廉太郎が大分の人だから、さういふことになつたんだな。滝廉太郎は大分から近い竹田の古城址もさまよつてゐるだらうから、それが作曲に感興をおよぼしてゐるかもしれないがね。滝廉太郎の記念碑は、大分市にもある。
 竹田の城あとは、大きくないけれど、ながめが美しいし、小さい町そのものが、はいるにも出るにも、トンネルをくぐるので、趣きがあつて、僕の好きな町だ。『荒城の月』も、竹田のものといふことになるかもしれないな。それよりも、竹田には、田能村竹田の家屋敷が、そのまま保存されてゐる。南画家のね。まあ、簡素な家だ。この縁の前の畑の野菜を、竹田が頼山陽をお客に迎へて、御馳走したなどといふのも、ほんたうの話なのだらうな。」と、直木はゆつくり話した。

 ( 『たまゆら』 川端康成 より )

 吾輩が、職場を去る夜、『荒城の月』を口ずさんでいた。時代の流れには逆らえない。だからといっ

て、時代の流れを理解しないわけではない。むしろ、理解しすぎているかもしれない。川端康成は、鎌倉

の流れ、つまり武家文化にこだわる。明治とは、武家文化が残留していた。そして、あの戦争も武士の生

き様であったのだ。だが、日本人には、武家もいれば、公家もいて、町人もいれば、農民もいて、漁民も

いたわけである。それらを、明治になって、統一日本人にしてしまったのだ。こういう状態で、民主主義

を実現すれば、どうなるのか、争いが生じてくるであろう。だから、吾輩は、神話学と民俗学と考古学と

歴史学をつなげてみても、それは正解ではないという答えにたどり着いたのだ。皆が互いに分かり合える

ようにならない限りは、忘却させていなければならない類のものなのだろう。

 まあ、高千穂幻想については、梅原猛氏の『天皇家のふるさと日向を行く』に詳しいが、吾輩は、『古

事記』の「竺紫の日向の高千穂のくじふる嶺」というのは、霧山ということに達した。しかし、天孫降臨

とは、水戸黄門と同じで行脚して廻っただけなんだと思う。だから、霧山の地は、後世抜け殻になってい

た。では、なぜ、宮崎県高千穂町が、高千穂となったのか。それは、ニニギノミコトが通ったところ―九

州山地一帯が、智穂とか呼ばれていたことから、漠然とした一つの場所ではなかったのだろう。しかし、

日向神話のように、次々と地元の人々との結婚によって、地縁を深めていった。そして、神武天皇の兄弟

の時代に、皇子が長男の五瀬命となって、稲氷命は海のどこかへ行き、御毛沼命は常世の国、高千穂町に

渡って、若御毛沼命(のちの神武天皇)は、五瀬命と一緒にいたんだと思う。それぞれ、天孫族の神話を

知っているから、それぞれの地に、高千穂ができあがる。そして、東征の結果、神武の血流が権力の中枢

になっていったわけだから、その故郷の山が高千穂峰として君臨するようになったのだろう。高千穂峰を

神武の里・高原町から見ると、二上山に見える。くじふる嶺とは、もともとの名称だったのかもしれない

が、真相はわからない。高千穂幻想は、濡れ衣なのか、抜け殻なのか。

                                   霧山人

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 鎌倉に住む占領軍の二三の家庭に、治彦少年はしじゆう招かれた。自然と父や母もともに招かれるやうになり、直木の家にも占領軍の家族を招くやうになつた。アメリカ人たちはこんな家庭的な交りを、敗戦のあとの日本人が思ひおよばないほどよろこんだ。思ひがけないほどの明るい善意を示した。
 「なにか不自由なものはないか。なにか不自由なことはないか。」と、言つてくれたのはもちろんである。敗戦の日本は、「不自由」などとのなまゆるさでない、窮乏、飢餓であつた。焦土とならなかつた鎌倉は、町にむざんな荒廃も錯乱も起きなかつたし、直木家にしたところで、戦争中の買ひ出し、闇買ひに、衣類などをかなり失つたものの、さしあたつて困るほどではなかつたが、きびしい食糧難はほかの土地とさう変りはしなかつた。治彦が占領軍のアメリカ人からもらつて来る、チョコレエトなどの菓子、兵士の弁当などのやうな食品も、ありがたいものだつた。やがて家庭的な交りにつれて、アメリカの罐詰類から、煙草、酒、砂糖までが、アメリカ人の手みやげとして、直木家に運ばれるやうになつた。言はば、直木家は治彦少年がもとで、ささやかながら一種の「特権階級」になりあがつたかと見られた。

 ( 『たまゆら』 川端康成 より )

 アメリカ人は友好的であれば、こんなに力強いものはないが、敵にすると、これほど恐ろしいものはな

い。占領下の日本は、今のイラクのように窮乏、飢餓に襲われている。その事を考えると、イラク戦争後

のアメリカは、戦後の日本のように、施されなければならない様だ。戦勝国とは、敗戦国と共に、幾多の

苦難を抱えてしまうことになる。そういうことから、絶対に戦争なんかに加担することはよくないという

ことがわかるはずである。

                                霧山人

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