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子路石門に宿す。晨門曰く、「奚れ自りする。」
子路曰く、「孔氏自りす。」
曰く、「是れ其の不可なるを知りて之を為す者か。」
(『論語』 憲問第十四 より )
子路が孔子に従って天下を廻り歩いた時に、偶然、石門という処に宿った。
その地の門番が「どこから来られたか」と問うた。
子路は「孔氏から参りました」と答えた。
門番はこれを聞いて誹って言うには、「孔氏とは道の行われないのを知りながら方々歩き廻って道を行おうとする男か。あなたもそのお供をして御苦労なことだ。」
隠者が孔子を評して言ったことである。
孔子の生きた時代も現代のように気候が悪化した時代であった。もしこの道を大道(天地陰陽の理)だと解釈して、周公の道としなければ、晩年に『易経』にこだわった理由もわかる。気候をよくする方法を探してもいたのだろう。そして、そのことについて、諸王に力を貸してもらおうとしたのかもしれない。子路も志士のように思えるけれど、信心が深かったので勇気があった。子路は、シャーマン(巫)の能力があったのではないかと思う。
霧山人
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今年辺り、キャビアが気になるんだが・・・。
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噴煙の気をまぎらわせるために、霧山幻想66(中村為彦の作)を書きました。
気晴らしに、お楽しみください。
こちらでは、読むことが出来ませんので、第二版 朝日の直射す國、夕日の日
照る國の方に入ってください。
どうぞよろしくお願いします。
霧山人
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周りの人々の吾輩のイメージがそれぞれ違うみたいなので、困っている。
さまざまなジャンルに及ぶと、読む記事によって、吾輩のイメージが人それぞれになってしまう。だから、怪人のように思われる。
それは、読者の妄想であって、本当の吾輩ではない。
いろいろな職業をしてくると、その職場によって、臨機応変に対応するから、イメージがそのときそのときでちがってくるのは当たり前である。千差万別になる。
小説を書こうと思うのだけど、まわりは吾輩が理系だと思っているから、書けなくなってしまうのだ。
小説という手法は、実験道具や分析機器がないから、言語を使って、真実を確認するためのものである。たぶん、意味がわからないだろうけど。
頭の中を整理する暇がないから、無我無想ということにしておくのだ。
だから、いろいろな門の入り口ばかりやたらにたくさん知っている。ジェネラリストの悲劇である。スペシャリストのほうがいい。その道に入っていかないから、究(窮)められないのだ。自分の道を見つけるのが難しい時代である。そのときの好奇心で、興味の対象が変わってくるだけだ。
例えば、第一版が文系(19世紀)にして、第二版が理系(20世紀)にしようかなと思ったりした。
まだ、結論がでないので、お気軽にお越しください。
霧山人
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ジキル(人間の心)とハイド博士(真実をいう)のねじれ。
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