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キリスト教道徳という言葉が何を指すものであるかを定めておくことが望ましいであろう。もしもそれ
が新約聖書の道徳を意味するとすれば、いやしくも新約聖書そのものを自ら読んでその道徳についての知
識をもっている人であるならば、新約の道徳が完全な道徳説として公言せられたものであるとか、あるい
は、完全な道徳説であろうとする意図をもったものであるとか、と憶測するようなことができるかどうか
いぶかしく思う。福音書は常に、在来の或る道徳に言及しており、その道徳がより広汎なより高次な道徳
によって訂正せられたり、あるいは置き換えられねばならなかった詳細の点についてのみ、自己の教訓を
かぎっているのである。それのみならず、福音書は、極めて概括的な語句をもって表現せられていて、字
義どおりに解釈し得ないことが多く、立法のような正確さよりもむしろ詩歌または雄弁のもつ印象強さを
もっているのである。倫理説の一体系を福音書から抽き出すことは、旧約聖書の内容を以て補足しない限
りは到底不可能だった。しかもその旧約聖書たるや、いかにも精巧な体系ではあるが、多くに点において
、野蛮であり、また野蛮な一国民のみを目標として書かれたものなのである。聖パウロがキリスト教徒た
ちに与えた忠言は、著しくギリシャ、ローマの道徳と順応した体系であって、明らかに奴隷制度を是認す
るに至っているほどである。普通にキリスト教道徳と称せられているもの――むしろ神学的道徳と呼ばる
るべきもの――は、キリストまたは使徒たちの作り出したものではなくて、その起源ははるか後年に属し
、初期五世紀の間のカトリック教会によって徐々に築きあげられたものなのである。そして近代人と新教
徒とは、これを盲目的に採用したわけではないが、彼らの行った修正は人々の予想するところよりもはる
かにすくないものであった。(東洋の場合、儒教道徳は体系化されすぎていて、その形式が強調されすぎ
たため、堅苦しい社会になっていった。仏教道徳においても、似たようなものである。西洋の場合は、上
記のように、そこまで堅苦しいものではなく、詩歌のような柔軟さをもっていたため、自由思想が伸びて
くる余地があったのであろう。キリスト教道徳も遠く見て儒教道徳の言葉で当てはめる事も可能だろう。
霧山人注)
人類の道徳的甦生をもたらすためには、単にキリスト教のみを基礎として展開せられうるような倫理と
は別の倫理(たとえば儒教道徳)が、キリスト教倫理と相並んで存在しなくてはならない。また、キリス
ト教の体系は、人間精神の不完全な状態においては真理にとっての利益のために意見の多様性を必要とす
る、という規則に対して、何らの例外をもなすものではないと私は信ずる。
( 『自由論』 第二章 思想および言論の自由について J.S.ミル著より )
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