平成17年4月6日から平成23年9月6日までのブログ

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 人間は、自己の意見を実行する自由をももたねばならないのではないか、という問題を検討することに

しよう。――但し、ここにいう自己の意見を実行する自由とは、自分自身の責任と危険とにおいてなされ

る限り、同胞たちによって肉体上または精神上の妨害を受けることなく、自己の意見を自己の生活に実現

してゆくことの自由という意味である。「自分自身の責任と危険とにおいてなされる限りは」という条件

は、いうまでもなく、欠くべからざるものである。何びとといえども、行為が意見と同様に自由でなくて

はならない、と主張するものはいない。むしろ反対に、意見ですら、それを発表するときの事情によって

、その発表がある有害な行為に対する積極的な煽動となるような場合には、その免罪性〔自由の特典〕を

失うのである。穀物商は貧民を餓死させるものであるといい、あるいは私有財産制度は掠奪であるという

ような意見は、単に出版物を通じて流されるときにはこれに干渉すべきではないが、ある穀物商の店頭に

集合している興奮した暴徒に対して口頭をもって述べられる場合、もしくは同じ暴徒に対してプラカード

の形で渡される場合には、当然に処罰の対象となりうるであろう。いかなる種類の行為であろうとも、正

当の理由なしに他人に害を与える行為は、これに反対する世論によって、また必要な場合には人類の積極

的な干渉によって、制圧されてよいものであり、一層重大なる場合には、絶対に必要なこととして制圧さ

れねばならないのである。個人の自由は、この程度までは制限されなくてはならない。個人は、他人の迷

惑となってはならない。しかし、もしも彼が、他人に関係のある事柄について他人に干渉することを慎み

、単に自分自身に関する事柄について自分の性向と判断とに従って行為するに止まっているならば、彼が

彼自身の責任においてその意見をなんの干渉も受けずに実行に移すこともまた許されねばならない、とい

うことは、意見が自由でなければならぬということ、人間の真理は大部分は半真理であるに過ぎないとい

うこと、相反対する意見を十二分に最も比較した結果として出て来たものでない限り、意見の一致は望ま

しいものではなく、また、人間が現在よりもはるかに、真理のすべての側面を認識しうるようになるまで

は、意見の相違は害悪ではなくてむしろ為めになることであるということ、――およそこれらの諸命題は

、人間の意見に対して適用しうるのと同様に人間の行為の様式に対しても適用しうる原則である。人間が

不完全である間は、異なった意見の存在していることが有益なのである。他人に害を及ぼさない限り、さ

まざまな性格に対して自由な活動の余地が与えられること、また、誰かが異なった生活様式を試みたいと

思う場合には、異なった生活様式の価値を実地に証明させうるということ――それはいずれもみな有益で

ある。これを要するに、第一にまず他人に関係があるというのでない事柄においては、個性が自己を主張

することが望ましいのである。己れ自身の性格ではなくて、他人の伝統や習慣が行為を規律するものとな

っているところでは、人間の幸福の主要なる構成要素の一つが欠けているし、また実に個人と社会との進

歩の最も重要な構成要素が欠けているのである。(他人に害を及ぼさない限りという点が、人付き合いを

疎遠にする理由でもあって、引きこもり的自由の社会での欠陥点となってくる。ここは、人と人との付き

合い方がよくわかる儒教道徳が役にたつであろう。親子のあり方、親友のあり方、師弟のあり方など、何

気なく試してみる価値はある。仕事と家庭で自己のあり方を規定することも一つの重要な方法である。我

慢と自由という神経的熟練(メリハリ)が求められる。霧山人注)

     ( 『自由論』 第三章 幸福の諸要素の一つとしての個性について J.S.ミル著 より )

 いずれの側に対する罵言に対しても、法律と官憲とがその抑止に手を出すべきではないことは明らかで

あると共に、世論は、あらゆる場合に、当然、その個々の事例の事情に応じて判決を下すべきである。す

なわち、論争のいずれの側に与しているかを問わず、その主張の仕方において公平を欠き、悪意、偏執、

または不寛容の感情があらわれているような人を、すべて非とせねばならない。ただし、或る人が或る問

題に関してわれわれ自身とは反対の側にくみしているとしても、彼のくみする側の如何によって、右にあ

げたような不道徳行為の存在を推論してはならない。また、反対者とその意見とをありのままに看取する

冷静さをもち、またそれをありのままに陳述する正直さをもっている人々、また、反対者に不利となるよ

うないかなる事実をも誇張せず、また反対者に有利となるような、または有利となると想像されるような

意見を抱いていようとも、当然の敬意を表せねばならないのである。これこそ公の論議に関する真の道徳

である。そして、この道徳はしばしば侵犯されるとはいえ、これを大いに遵守している多数の論客があり

、またそれを遵守しようとして良心的に努力しつつある、さらに多数の論客の存在していることは、私の

欣快とするところである。

   ( 『自由論』 第二章 思想および言論の自由について J.S.ミル著 より )

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 今やわれわれは、四つの明白なる根拠に基づいて、意見の自由および意見を発表することの自由が、

人類の精神的幸福(人類の他の一切の幸福の基礎をなしているところの幸福)にとって必要なことを認識

した。以下、簡単にその四つの根拠を概括しよう。

 第一に、或る意見に沈黙を強いるとしても、その意見は、万が一にも真理であるかも知れないのであ

る。このことを認めないのは、われわれ自身の絶対無謬性を仮定することである。

 第二に、沈黙させられた意見が誤謬であるとしても、それは真理の一部分を包含しているかも知れない

し、通常は、包含していることがしばしばある。そして、いかなる問題についても、一般的または支配的

な意見が完全な真理であることは稀れであるが、絶無であるのであるから、真理の残りの部分の補充され

うる機会は、相反する意見の衝突することによってのみ与えられるのである。

 第三に、一般に認められている意見が単に真理であるというに止まらず、完全なる真理であるという場

合においてすら、それに対して活発な真摯な抗議を提出することが許され、また実際に提出されるという

ことがないならば、その意見を受容する人々の大多数は、偏見を抱く仕方でそれを抱き、それの合理的根

拠を理解しまたは実感するということはほとんどないであろう。だがそれだけでなく、さらに第四に、そ

の教説そのもの意味が失われまたは弱められて、その意見が人の性格と行為とに与える生き生きとした影

響が抜き取られる、という懼れがあるであろう。すなわち、その教説は、単なる形式的な信条告白となり

、永久に功能を欠いて、ただいたずらに場所をふさぎ、理性または個人的経験から真実な心からの確信が

成長して来るのを妨げることになるのである。

   ( 『自由論』 第二章 思想および言論の自由について J.S.ミル著 より )

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 栗に大小あり。丹波の大栗を勝れたりとす。三つ有るいがの内、中なるをゑり取りて湿地に埋め置き、

春芽少し出でんとする時、肥地の底は堅く立根のながく入らぬ所をゑらびて、五七寸間を置きてならべ

うへ、中一年して移し栽ゆべし。二三年にして必ず実る物なり。又是を所をゑらびてうへをき、杖ほどに

なりたる時、だい木にして大栗の穂を接ぎたるもしるし速かなり。二年の後は必ず実るべし。又山にて柴

栗のだい木を掘りうへをきて接ぎたるもよし。

 又一説に、栗はうへ付けにして移しうゆべからずともいへり。木ふとりてうへかゆれば久しくたらぬ物

なり。小き時は移しうへてもかはる事なし。

 又栗をうゆる事は木より落つるを其まゝ拾ひ、わらなどに包み深く埋み、春二月の頃芽少し出づるを見

て、とがりたる方を下にして、深さ二三寸に種ゆべし。若したねを遠方より取るならば、桶か箱に沙土を

入れ、其中にいけて風日にあつべからず。惣じて木となりても手風の触るゝ事を忌む物なるゆへ、うへを

きて盛長の後まで、木に手を触るべからず。手風切々触るればならぬ物なり。

 又丹波にても一さかりなりにては、木に蟲付きて中を通し痛みて実らぬ物なり。十月に入りて草を以て

幹(しんぼく)を包み、下にも木の葉をかきあつめ火を付けて焼くべし。蟲の穴にけぶり入り、朽ちたる

所に火入りてこがれ蟲も死し、其後木わかへてよくなる物なり。丹波にても大栗は大かた屋敷廻り山畠な

どの畦々ばかりうへて、山中には大栗はまれなりと云ふなり。丹波の土は大概赤土なり。種ゆる所は南向

取分きよし。又はあらき白砂の地も栗によしと云ふなり。北向の肥へて深き地は宜しからず。あはぬ地に

ても一端はふとりさかゆれども、やがて蟲付きてたをるゝ物なり。土地、風気をよくゑらびてうゆる事肝

要なり。

 同じく丹波にて栗を取りて収る事は、よく熟し、自ら口をひらきたるばかりを拾ひて一日乾し、其後か

まげに入れ他所へ売出すなり。

 又かち栗はわらの灰のあくに一夜漬け置きて、明る日日出でて取出し、さらし乾し、肉よくかはきて堅

く成りたる時皮をうち去るべし。臼にてつきて去りたるもよし。

 又生栗を来年まで納め置く事は、箱か桶又は壺にても沙を入れ、栗の芽の所をやきがねにて焼き、段々

沙に埋み置けば夏までも新しきがごとし。

 又栗の芽の所を右に云ふごとく焼きて土にてぬり、ざつと干し日の当らぬ縁の下に散しをきたるは、く

さらずして久しくたもつ物なり。但しじねんと口ひらき落ちたるよし。熟せざるはこたへず。

 又栗実らざるをば下枝を多く切り捨てゝ梢の枝をとめをけば、かならずみのる。

         ( 『農業全書』 巻之八 菓子之類 栗 第五 より )

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 稲は五穀の中にて極めて貴き物なり。太陰の精にて水を含んで其徳をさかんにすと云ふて、水によりて

生長するゆへ、土地のよしあしをばさのみ云はずして、先水を専にする事也。稲は汚泉に宜しとて、上に

流水あるか、又は泉池塘など有りて、水のかけ引自由にて旱にも絶えず、又洪水などの災もなく、殊に村

里の濁水の流れ来る地を第一とするなり。さて土の性は黄色、又は黒土のねばり気すくなく、青黒の小石

少々交りばらつきて重く、深くして性強く、悪土少しもまじはらず、水をはづして麦を蒔き、木わた其外

何にても畠物を作りても湿気のきらひもなく、日向までよくて実りよき高田を上々とは云ふ也。是より以

下よき事の不足なる次第を以て、上中下段々の位をはかり定むべし。

 稲の種子、早晩、美悪、色々其品限なく多しといへども、其粒白き事霜のごとくすきわたりて味よく、

実り多きをゑらびて作るべし。尤風虫などにもさのみ痛まず、其所の土に相応して利分のまされるを考え

て用ゆべし。必ずしも前々より其所に作り来りて、此外は求るにたらずと一遍に思ふべからず。種子のよ

しあし、相応不相応にて、過分の損徳ある事、諸書に委しく記し置けり。然るゆへに物種子を収むる総論

に詳に其事をしるせり。正月種へて五月刈り、其根より又茎葉を生じ、九月熟する稲あり。又当年から枯

れて来年をのづから生ふる稲も唐には有りと見えたり。是等の稲たねを求めて作り心みたき事なり。

 稲は柳に生ずとて、楊柳のさかゆる歳が稲のよきものなり。本朝にても農民の世話に梅出、枇杷麦とも

云ふなり。考へみるに此説大抵たがわず。

 稲は苗をうへて七八十日にして穂に出で、さてそれより早田は三十日、中田、晩田は四五十日にて刈し

ほになる物なり。

         ( 『農業全書』 巻之二 五穀之類 稲 第一 より )

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