平成17年4月6日から平成23年9月6日までのブログ

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 要するに、私の主張しようとするのは次ぎのことなのである。すなわち、他人から受ける悪評と堅く結

びついて分離しがたい迷惑こそ、或る個人が、その行為と性格との中で、自分自身の幸福には影響するが

他人との関係においては他人の利益に影響することはないという部分によって蒙らねばならない、唯一つ

の迷惑なのである。他人にとって有害な行為は、これとは全く異なった取扱いを必要とする。他人の権利

を侵害すること、彼自身の権利によって正当化することのできない損失や損傷を他人に蒙らせること、他

人との交渉における虚偽やうらおもてのあること、他人に対する優位を不当に、もしくは無慈悲に行使す

ること、また、利己のために、他人の蒙ろうとする損害を防ごうとしないことでさえ、――すべてこれら

の行為は、当然に道徳的非難を受くべきものであり、また重大な場合においては、道徳的報復と刑罰とを

受くべきものである。そして、これらの行為のみでなく、これらの行為に導いた性向もまた、正に不道徳

なものであって、当然に非難の的となるべきだし、またこの非難がさらに憎悪の念を呼び起こすこともあ

るであろう。残忍な気質、悪意と邪険、すべての激情の中で最も反社会的なまた最も忌まわしい感情であ

る嫉妬、虚偽と不実、充分な理由もなしに怒り易いこと、挑発に対して不釣合いな憤激、他人を支配する

ことを好む心、自己の分け前以上の利益を壟断しようとする貪欲(ギリシャ人のいわゆる貪婪)、他人を

貶めることに満足感を覚える高慢、自分と自分の関心事とを他のいかなるものよりも重要視し、一切の疑

問を自分に都合よく決定する自己中心癖(エゴティズム)、――これらのものはすべて、道徳的欠陥であ

って、不良で忌まわしい道徳的性格を構成しているのである。先きに述べた自己配慮の〔自己にのみかか

わる〕欠点は、これとは異なっていて、それは本来の不道徳ではなく、いかに甚だしい程度に至っても、

邪悪とはならないのである。それらの欠点は、何らかの程度の愚劣さ、或いは、人格的威厳と自尊心との

欠如の証拠であるかも知れない。しかし、それは他の人々――その人々のためにその個人が自ら自分を大

切にせねばならないところの他の人々――に対する義務を破るようになった場合においてのみ、道徳的非

難の対象となるに過ぎない。いわゆる自己に対する義務と呼ばれるものは、事情によってそれが同時に他

人に対する義務という言葉は、それが、単なる分別以上の何ものかを意味する場合には、自尊または自己

発展を意味するのであるが、自尊や自己発展については、そのいずれについても、何びとも同胞たちに対

して責任を負ってはいない。なぜならば、これについては、何びとも同胞たちに対して責を負わされない

ということこそ、人類の利益であるからである。

  ( 『自由論』 第四章 個人を支配する社会の権威の限界について J.S.ミル著 より )

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 私(J.S.ミル)は、或る人物を他の人々が見る際の感情が、その人物の自己配慮(セルフ・リガーディ

ング)の資質や欠陥によって、毫も左右されてはならない、というのではない。このことは可能でもなけ

ればまた望ましくもない。もしも彼が、彼自身の幸福に役立つような何らかの資質において傑出している

ならば、賞賛とは正反対の感情がそれに伴うであろう。愚劣な言行には程度がある。その程度が低劣な趣

味または堕落した趣味(この用語には異議がないとはいえないが)と呼ばれうるものに達した場合には、

たとえ、このような愚行と趣味との故に、それを露呈した人に害を加えることは正当化しえないとはい

え、その人物が嫌悪の的となり、また極端な場合には軽蔑の的とさえなることは、避けえないことであり

、また当然なことでもある。右と正反対の資質を相当強くもっている人ならば、右のような資質に対して

嫌悪と軽蔑との感情を抱かないわけにはいかないのである。何びとに対しても。不当なことはしていない

にもかかわらず、われわれとしては、その行為者を愚物もしくは劣等の人物として判断せざるをえず、ま

たそう感ぜざるをえない、という行為が存在しうるのである。そして、このような判断と感情とは、彼が

さらされている他の一切の不快な結果について警告するのと同じように、彼に親切を尽くすことになるの

である。もしもこのような親切が、今日礼儀についての世間の通念が許している程度よりもはるかに自由

に与えられるならば、――また、誰が或る人が他の人に対して、誤っていると考えることを正直に指摘し

ても、無礼ともさしでがましいとも考えられないですむのであるならば――それは実に喜ぶべきことであ

ろう。われわれは、或る人に対して好ましくない意見を抱き、その意見に即してさまざまな仕方で行動す

る権利をもっているが、それは彼の個性を圧迫するためではなく、ただわれわれの個性を活動させるため

である。例えば、われわれは、彼との交際を求める義務はない。われわれはそれを避ける権利をもってい

る(それを避けることを誇示する権利はもっていないけれども)。なぜならば、われわれは、自分に最も

気に入った交友を選ぶ権利をもっているからである。もしもわれわれが、彼の実例や談話は彼と交際する

人々に有害な影響を及ぼす惧れがある、と考えるならば、われわれは、彼に対して警戒するように他の

人々に注意してやる権利があるし、また注意してやることが、われわれの義務ともなるであろう。われわ

れは、他人に対して自由に選択のできる親切を尽くすとき、それが彼の改善に役立つという場合以外は、

他の人々を先きにして彼を後にしても構わないのである。以上のようなさまざまな様式で、人は、直接に

自分自身にのみかかわる欠点のために、他の人々によって極めて峻厳な罰を与えられることがあるのであ

る。しかし、彼がこのような罰を受けるのは、これらの罰が、欠点そのものから生ずる自然的な、いわば

自然発生的な、結果である限りであって、その罰が、懲罰の目的で故意に彼の上に課せられるからではな

い。性急、頑固、自惚れを示している者、――普通の生活費をもって生活することのできない者、――感

情と知性との楽しみを犠牲にして動物的快楽を追求する者、――およそこのような人物は、人々の評判を

落すこと、その人々の好感を受けることがますます減少することを、予期しなくてはならない。しかし

、このことについて、彼は不満を洩らす権利を少しももってはいない。ただ彼が、社会的関係において特

別にすぐれていて、それによって他人の好意を受けるに値している場合、また、そのようにして、他人の

親切を受けるだけの資格を確保し、自己自身に関する彼の欠点によってその親切が影響されないという場

合には、別問題である(つづく)。

  ( 『自由論』 第四章 個人を支配する社会の権威の限界について J.S.ミル著より )

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