平成17年4月6日から平成23年9月6日までのブログ

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心中日記

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 吾輩の心の中には、敗北と勝利が入り混じっている。半分は勝利したものの、また半分は敗北したよう

なものである。戦後の敗北と、冷戦の勝利ではあるが、やはり明治日本ではなくなったという敗北では

あるが、平成日本であるという勝利感が存在する。人間においても、遺伝では半分しか伝えることはでき

ない。それならば、半分残れば十分だとはおもう。まあ、何にしても、実生活においては勝利したような

もんであるが、心的生活においては敗北してしまった感慨である。小説のネタも上がっているが、それが

M交通の再建策に関するものではあるが、気が重たく、時間に流されていくだけの吾輩のアニミズム的感

性にまで落ちていく。もう、吾輩は自然界の現象にしかすぎなくなっている。もう、社会について、問題

に感じることもなくなってきた。それは、単に外界に興味を失ってしまったに過ぎないのかもしれない。

自然の奥深くに入っていくと、往古の日本人の感覚がわかってしまう。そして、その上に神道だろうが、

修験道だろうが、仏教だろうが、全く関係なく、自然を眺めていくという手段しかない。それは、次第に

自然科学者としての観察眼へと変貌してゆくわけであるが、それでも、自然を眺めるという行為に変わり

はなく、それ故、日本人であるということを喪失してゆくということは永久にないのだということを知

る。そういうわけだから、森羅万象においても、社会流行の変遷にかかわらずとも、吾輩の存在と言うも

のは、存在するということにしか行き着かないのだ。そこまでゆけば、則天去私に近づいたことになるの

だろうか。

                                        霧山人

無題42

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                                 仰臥 人 啞の如く

                                 黙然 大空を見る

                                 大空 雲動かず

                                 終日 杳かに相い同じ

          ( 『漱石詩注』 第二 無題 明治四十三年九月二十九日 より )

 仰向けに寝ていると、人の声が、言葉になっていないようだ。

 黙っていながら、大空を見ている。

 大空は、雲が動いていないみたいだ。

 一日が終わるまで、はるかにずっと同じ風景のようだった。

                                  霧山人

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 野蛮が全世界を支配していたときにおいてすら、文明は野蛮に打ち勝ったのであるから、野蛮がすでに

充分に征服された後において、それが復活して文明を征服するかも知れないことを懼れるなどと告白する

のは、行き過ぎというものであろう。己れのいったん征服した敵に負けるような文明は、まず第一に、す

でに甚だしく頽廃していて、それの任命した僧侶や教師も、また他のいかなる人物も、このような文明を

擁護するために立ち上がる能力もなければ、またその労を取ろうとする意志もなくなっているに相違ない

のである。そうとすれば、このような文明が退去命令を受けることが早ければ早いほど、なお結構であ

る。このような文明は、悪からさらに一層の悪へとますます悪化してゆくばかりであって、ついには精力

旺盛な野蛮人たちによって、(西ローマ帝国の如く)亡ぼされ、また更正させられる他はないのである。


(今のアメリカ合衆国はどうであろうか。まだ、同盟国日本に更正させられるならばましというわけだが

、イスラム諸国や中国によっての更正ならば、取り返しのつかないことになってしまうだろう。霧山人

注)

  ( 『自由論』 第四章 個人を支配する社会の権威の限界について J.S.ミル著 より )

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 近代の世界においては、民主的な政治制度を伴うと否とを問わず、民主的社会組織に向かおうとする強

力な傾向が公然と存在する。この傾向の最も完全に実現されている国――社会と政府とが共に最も民主的

である国――すなわちアメリカ合衆国(1859当時)においては、多数者の感情は、彼らが到底競争し

えないと思われる程度の華美または豪奢な生活様式が出現することを不快としていて、多数者のこの感情

が、相当に効果のある奢侈制限法として作用しているし、また、合衆国(1859当時)の多くの地方に

おいては、巨額の所得をえている人にとって、民衆の非難を招かないような所得の支出方法を発見するこ

とが実際に困難である、ということは、真実だといわれている。このような述べ方は、現在の事実の再現

としては、疑いもなく甚だしく誇張されたものであるけれども、しかし、そこに記述されているような事

態は、民主的感情が、公衆は個人の所得の支出方法に対して拒否権をもっているという考えと結合した場

合に生じる、想像し得るべき結果、ありうべき結果であるばかりでなく、実にありがちな結果なのであ

る。われわれはさらに、社会主義的意見が相当広く普及した場合を想像してみさえすればよい。その場合

には、多数者の眼から見れば、一定の極めて僅少な額以上の財産をもつことや、手の労働によらない所得

をもつことは、破廉恥なこととなるであろう。原理上のこれと同じような意見は、すでに職工階級の間に

広く普及していて、主としてこの階級の意見に従順であらねばならない人々、すなわちこの階級自体の成

員である人々を、重苦しく圧迫しているのである。周知のように、多くの工業部門において労働者の大多

数を形成している不熟練労働者たちは、次のような断乎たる意見をもっている。すなわち、不熟練労働者

は熟練労働者と同一の賃金を受け取るべきであり、また、何びとも、出来高払いその他の方法によって、

優秀な技能または勤勉を利用して、他の労働者たちがそれなしにかせぐ所得よりも多額の所得を稼ぎ出す

ことを許さるべきでない、というのである。そして、彼らは、熟練労働者がより有用な勤労に対してより

大なる報酬を受け取ろうとし、また雇い主がこのような報酬を与えようとすることを阻止するために、道

徳的な警察力を使うのであるが、この警察力は時としては物理的な警察力ともなるのである。もしも公衆

が私的な事柄に対して何らかの司法権をもつものとすれば、私は、これらの不熟練労働者がまちがってい

るとは考えることができない。また、不偏的な公衆〔社会〕が人民一般に対して主張するのと同一の権威

を、或る個人の所属している特殊の公衆〔小社会〕がその個人の個人的行為に対して主張するとしても、

それを咎めることができるとは考えられない。

 しかし、仮想的な事例を長々と論じるまでもなく、われわれ自身の生きている現在(1859当時)、

私生活の自由に対する甚だしい侵犯は現実に行われているし、また、さらに甚だしい侵犯が成功しそうな

見込みをもってわれわれを脅かしている。そして、公衆は、公衆が悪と見なす一切の行為を法律によって

禁止しうるのみでなく、公衆が悪と見なす行為を捉えるためには、公衆が無害と認めている多数の事柄を

さえ、禁止しうる、というような公共生活における無制限の権利を主張する意見も提出されているのであ

る。

  ( 『自由論』 第四章 個人を支配する社会の権威の限界について J.S.ミル著 より )

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 或る人が思慮分別や人格的威厳を欠いているために当然に招くであろうと思われる他人の軽侮と、他人

の権利を侵害したために当然に彼に加えられている非難と、この両者の間の区別は、単に名目上の区別に

すぎないものではない。われわれが彼に対する統御の権利をもっていると考えられる事柄に関して、彼が

われわれを不快にしているのか、それとも、われわれがそのような権利をもたないと知っている事柄に関

して、われわれを不快にしているのかということは、彼に対するわれわれの感情においても、また行動に

おいても、著しい相違を生ぜしめる。もしも彼がわれわれを不快にするならば、われわれは、嫌悪の情を

示してもよいし、また、自己を不快にする物から遠ざかると同じように、そのような人から遠ざかること

もできる。しかし、われわれは、だからといって、彼の生活をも不快にするように要請されていると思っ

てはならない。われわれは、彼が彼の過失に対する充分な刑罰をすでに受けていること、あるいは、やが

て受けるであろうということを、反省せねばならない。たとえ彼が処置を誤ったためにその生活を駄目に

しているとしても、われわれは、それを理由として、さらに一層彼の生涯を駄目にしようと欲してはなら

ない。われわれは、彼を処罰しようなどと思うかわりに、むしろ、彼の行状のもたらす傾向のある諸々の

害悪をいかにして回避し、また、いかにして矯正しうるかを、彼に示すことによって、彼の刑罰を軽減し

ようと努むべきであろう。彼は、われわれにとっては、燐憫の対象、恐らくは嫌悪の対象であるかもしれ

ない。しかし、憤怒または怨恨の対象ではないであろう。われわれは、彼を社会の敵であるかのように取

り扱ってはならないのであろう。たとえ、われわれが彼に対して関心や憂慮を示し、慈愛をもって干渉す

るというところまでは行かないとしても、われわれとして当然してもよいと考えられることは、ぎりぎり

のところ、せめて彼を好むままに放置して置くということである。だが、もしも彼が、彼の同胞を――個

人的にせよ、集団的にせよ――保護するため必要な諸々の規則を犯したとすれば、事情は全く別である。

この場合には、彼の行為のもたらす邪悪な結果は、彼自身の上に落ちて来るのではなくて、他人の上に落

ちて来るのである。したがって社会は、そのすべての成員の保護者として、彼に対して報復を加えなくて

はならない。すなわち、彼に対して明らかに処罰の目的を以て苦痛を課し、且つその苦痛が充分に峻厳で

あるように注意しなくてはならないのである。一方の場合には〔或る人が他人の権利を侵害する場合に

は〕、彼はわれわれの法廷における犯罪者であって、われわれは彼に対して判決を下さなくてはならない

のみでなく、何らかの形で、われわれ自身の下した判決を執行しなくてはならないのである。他方の場合

には〔彼が単に自己に関する欠点を示しているに過ぎない場合には〕、彼に対して、いかなる苦痛にせ

よ、苦痛を与えるようなことは、われわれのすべきことではない。ただ、われわれ自身に関する事柄を処

理する際に、われわれが彼に対して認めていると同じ自分の自由を行使することによって、これに付随し

て生じるかも知れない彼の苦痛だけは止むをえない。(『自由論』は福澤翁にも影響を与えたであろう

が、その正当な後継者である漱石山人の『私の個人主義』にも反映している。だが、漱石山人は、他人に

迷惑を与えないということを個人主義の前提としてましたが、それはいかにも曖昧でした。しかし、当時

の日本の現状ではそれには限界があったわけです。そのあたりは再び考慮しなくてはいけないでしょう。

霧山人注)

  ( 『自由論』 第四章 個人を支配する社会の権威の限界について J.S.ミル著 より )

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