平成17年4月6日から平成23年9月6日までのブログ

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年頭の所感

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 今年も明けてしまった。外をよく見ると、長年親しんでいた三本の杉の木が伐られて、空が広く明るく見えるようになった。二十代は何かとつらい事が多かったので、これからは明るい兆しが訪れてほしい。明るい兆しを差す言葉に、瑞祥ということがある。吾輩も去年の八月に祥の字を持つ娘に出会い、その善い兆しを得たように思えた。吾輩は、その娘を名づけて吉祥天女、あるいは霞天女と呼んだが、あまりにも幻想に過ぎなかったようだ。だいたい、今の現代人は難しい漢字の意味を知らない人が増えてきている。漢字に詳しいひとが減って来ているということだ。それは、そういった文化伝統が理解できるという人々が減ってきているということだ。つまり、「欧米か」が進んできているということだ。まあ、欧米といっても、一昔前の欧米諸国の文化とはまた異なったものになっているのは確かなので、都市文明化といったほうがいいかもしれない。だが、往来の東洋の文化伝統に依って商売をしているものにとっては大変なことではある。それは、客が減っていくのではないかという心配だろう。それは現実としてありえない話ではないにしても、悲観的になることもない。高齢者は年金くらしであるし、若い顧客層にしても、もの珍しさに集まってこないとも限らない。田舎の佇まいというものは、その地の気によって作られていて、人為ではどうしようもできないものが多い。そういうものを活かすことが、人間の智慧とされている。
 都会に飽きて疲れた人や仕事に疲れた人達をどのようにもてなすのかということが大事である。いつも同じ世界で生きているということはとてもつまらないことであるのだ。都市文明の中において、疲れ果て飽きてしまったとき、ふと田舎に往古の佇まいを残しているといった不思議な場所があった場合、とても価値があることだと思う。希少なものには価値がつくのである。どこも真似ができないのだけれども、孤立せず、人々が興味を持ち、集まってくるにはどのようにしたらいいのだろうか。ここが難しいところである。まず、人々の動向をよく眺めて、自分たちのやりたいことが今の人々にどのようにしたら伝わるのかを考えてみる。相手のことをよく知ろうとすれば、おのずと相手も自分のことを知ろうとしてくれるはずである。これはお客に対しても同じである。どのような客がよくやって来て、やって来て欲しい客にはどのようなモノを提供すれば喜ばれるのか。そうやっていくうちに、だんだんと善い兆しが現れてくるにちがいない。また、新しいことを成功させるには多大な労力を要するものである。ましてや、うまくいっている古いものを駆逐して、新しいものを突如と出現させることは困難である。少しづつ少しづつ成功を積み重ねていって、古いものと比較しても遜色がないといえるようになったら、進めるのがよい。評判を得なければ、新しいものはうまくいかない。
 味というものは、理窟ではない。味は感覚の世界である。だから、人に美味しいと思わせることは難しい。相手があって、相手が美味しいと言ってくれなければ、その料理は不味いということなのである。いくら、手が込んでいて、高価な食材を使っても、食べた人が美味しいと思わなければ、美味しい料理ではないのだ。舌に正直でなければならない。料理人に理窟の必要ないのは、自分の舌の感覚に敏感であるかどうかが肝心であるからだ。だから、素直な人ほど、筋がよい。料理人は妙なところで頑固なことがあるが、それは自分の感覚を大事にしているからだろう。そうであっても、料理は心という。つまり、相手の心がわからなければ、美味しい料理をつくることはできないと思って、正解だろう。どのような客が来て、どのような料理を好むのかということは、よく相手と接しなければわからない。客にも色々いる。だから、接客ということに注意を傾けるのであろう。客が満足しているかどうかということにつながるのは、日々の過ごし方忠実だと思う。つまり、仲間同士が仲が悪ければ、客に向かって、そのときの気持ちが出てしまったりするかもしれないし、仲間に嫌がることを言っていれば、そういうことを客に言ってしまっていても、気付かなかったりするかもしれない。だから、日頃の人間関係が客との接し方を鍛えることにつながるにちがいない。ピリピリイライラが客に伝わると、客に不快感を与えてしまうだろう。客がくつろげる雰囲気をつくるには、どんな状態でもリラックスして、気遣いを忘れない心がけが大事だと思う。今の時代に、そのようなことは無駄だと思われるかもしれないが、都会や仕事に疲れた人々には、そういった心遣いこそが新鮮な感動を呼ぶであろう。そして、そういった心を拡げていけば、きっと今年はよい年になって行くに違いないと思う。

平成十九年一月十一日吉日

                                霧山人

説気 山下語 25

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 器分は非器分を離れて存し得るであろうか、また非器分は器分を離れて存し得るであろうか。器分即ち非器分で、身即心ではあるまいか。非器即器で、心即身ではあるまいか。古の人はあるいは身を外にして心あることを思い、あるいは心を外にして身あることを思い、身心を分離し得るように考えたものもある。その思想の由って来ることを尋ぬるに、けだし人死して身なお存し、而してその感思し料簡し命令する所以のものの存せざるに至れるを見たるより発したのであろう。また身少しも動変せずして、而してその感思し料簡し命令する所以のものの活動するに似たる夢というものを認むるより発したのでもあろう。また身の欲する所と心の欲する所と牴牾するが如き場合、即ち慾と道義心との相争う場合などを省察したるより発したのでもあろう。しかし死の場合には身なお存して心の遊離するのではない。死する時には身もまた破壊せられずに存して居るのではない。あるいは心臓鼓動の力尽き、もしくは障害あるにより、あるいは脳血管の破るるにより、あるいは不時の失血多量により、あるいは呼吸器障害もしくは欠損により、あるいは体温の昂騰により、その他種々の器分の破壊生ずるにより、その死を致すもあるが、しかもその死と同時に器分のある物が破壊欠損せらるるは疑うべからざることである。死の因、死の縁は種々無量であるが、器分の破壊欠損せられずして身なお生けるが如くなるに、心鼓休み肺鞴動かざるに至るを以て神既に去るを見て、非器分と器分とを分離し得べきように考えたのであろう。而して稀に見るところの蘇生者の談話は非器分の遊離を思わしめ、また他世界の存在をも思わしめるに与かって力があったろう。但し蘇生者が多く他世界の談を為すこと、たとえば智光の古談の如きは、即ちその人なお真に死せずして不完全ながら脳作用を継続し居たるを証するものであり、また微量ながら脳に向って血液の供給されて居たことを語るものである。夢は心理及び生理の併合作用である。もしくは生理より惹起さるる心理作用であるとして差支ない。身の欲する所と牴牾する場合も、詳しく省察すれば碁の争いの如きもので、交替争闘である。同時争闘ではない、一室一主である、一室二主ではない。なお詳しく省察すれば、輾転して休まざる一の骰子のあるは一を示しあるいは六を示して居るようなもので、本これ一個物である、最小時間においては二者相対して居ないのである。是の如く看来るに、身心は分つべからざるが如くである。

(『努力論』 幸田露伴 説気 山下語 より )

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