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しかし吾が身を観るに我が所摂でなき如きものがあり、わが所知でなき如き運動が行われて居るのを覚える。肺臓の如き、心臓の如き、胃の如き、腸の如きものが、わが命を得て後に運動して居るのでないことは明らかである。爪の如き、髪の如きものが、われに属して居るものではあるが、我が料簡し感思し命令する所以のものとは甚だ遠き距離を有して居ることも明らかである。髪の如きは某甲既に死して後なおその生長を続けるのである。これらの物は我の部分なるが如くまた外物なるが如く、庭前の松柏、路傍の石礫と同視することは出来ぬけれども、しかもまた我と相遠きを覚える。けだし是の如きはまた古の人をして身心を分離して考えるに至らしめた一端であろう。肺臓心臓の如きものが吾人に近きことは、髪や爪とは大に異なって居る。しかし吾人は吾人の肺臓や心臓が何の状を為して居るかをも、解剖学の図面もしくは模型、または他人の実物を目にするより以外に知らぬのである。盲腸の如き、生活状態の変化したる今日の吾人には何の用をもなさずして、かえって病患を貽すほかには作用なき物の体内に存在して居るのは、吾人が料簡し感思し命令する所以のものから言えば、摘出し駆除したくも覚ゆべきものである。これは我が中の矛盾である。腸の無用の長さの如くも、吾人が爪を剪るが如く容易に短く為し得るならば、あるいはこれを短縮せんことを敢てするであろう。これも我の中の矛盾に近い。是の如くに我の中に我の所摂ならざるが如きものあり、また矛盾をさえ認むべきものがある位であるから、仮に我を分って二とし、身とし心とし、器とし非器とするに至るも無理はない。是の如く看来るに、身心は分つべきが如くである。 |
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2007年01月15日
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日は今日は小さな天の銀盤で |
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