平成17年4月6日から平成23年9月6日までのブログ

日本の四季を大切にしよう。引越し先でも閲覧可。下の一言が入り口↓ 容量2GBを超えたので引越ししたよ。

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まあ、いいじゃん。

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 もう、十分だよね。救われたんだしさ。すごいね。

           
         霧山人の独り言

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下書きなし。できたとこ勝負。これぞ、九州男児。どーーん。小説も推敲したことがない。自然そのもの。そのときの妙技。

霧山人

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 蘇鉄の葉っぱは広がったあとはなかなか大きくなってくれない。膨らんだ幹を見る日は遥かに遠い。それでも、芽生えというものはニョキニョキとシャカシャカと葉の形を生育させる。櫛の歯みたいの出て来たかと思うと、ザンと大きくなり、やっぱりあの蘇鉄の葉っぱになっていく。その見事さ。あのぜんまいがやがて羊歯用の葉っぱになっていくのと同じような成り行きだ。やっぱり暑いせいか、南国宮崎にふさわしい。リゾート開発で、宮崎のイメージは南国から遠ざかって、灰色になってしまったが、やっぱり日本列島においての南国ぶりは、桜島の火山灰と暑さに象徴される鹿児島と並ぶだろう。そして、さらに、天草の長い長い橋によってつながった青い島嶼をもつ熊本も捨てがたい。沖縄が海に浮ぶ遥か遠い南の島であるとすれば、九州南県は、陸において交通される南国情緒不思議地帯である。まあ、日本列島自体、ユーラシア大陸に比ぶれば、ちっちゃな島国には変わりないのだけども。日本人はさらに小さいので、別に構わないだろう。それにしても、赤ちゃんの手のひらのように、ちっちゃくても手のひらの形をしているように、蘇鉄の芽吹きもそういった形が整っているのがおもしろい。

                                    蘇山人

ボート漂流

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 ある愛し合う男女が大きな船に乗っていた。突然の雷雨の中、その船は遭難し、ついに落雷によって、火災が発生した。船はもはや操行不能になっていた。その男女は、避難用のボートを見つけて、乗り込んだ。そして大海原へと投げ出されたのだった。しばらく漂流が続いていた。二人は死に瀕していた。そして、食料も一人分で一週間しかないことに気付いた。どちらにしても、二人とも助かりっこない。だが、ひょっとしたら、一週間もあれば、一人は助かるかもしれない。男は決断に迫られた。愛する女に食料を残して、自分はボートから離れて自力でなんとかするか、そのまま二、三日後に二人とも餓死するか。選択の余地はない。男は決死を覚悟して、女をボートに残し、そのまま海に身を投げ込んだ。それから、六日後、女は無事に救助されて、九死に一生を得た。男のほうは、消息不明のままだった。女は嘆き悲しんで、その男が本当に自分の事を愛してくれていたことがわかった。そういう状態でこそ、愛というものは曝露される。そして、数ヵ月後、その男は自力で孤島に辿り着き、そこから脱出して、やがて女を捜し廻り、ついには女と再会した。こういう話があったならば、それは愛と呼べるのではないだろうか。

                               中村 為彦

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 「責任」という言葉のもつあの強大な威厳はどこから来たのだろう。人間の行為の動機を微細に追究して行くならば、我々はその人固有の宿命にまでつき当り、或は一見些末な事柄を見出し、或は無数の糸がからみあったような手の施しようのないもつれの前に茫然としてしまう。一行為を為した後に我々の知ることは、自分がいかに自己を知らないかということである。
 「責任」とはこの場において起る一の諦念的な裁断であり、空想的な自己容認ではないかと思われる。社会生活とは裁断の生活だ。この意味で諦念の生活だ。「責任」という言葉のもつ神秘性は、人間の行為の動機における謎の深さに比例する。謎が脅かすのだ。だから全責任を負うと称する人の裡に、もし嘘でないなら、僕は空想と尊大を感じてきた。或は驚異と幾分の嫉妬をも。厳密に考えて、人は人生に対して「全責任」など負えるものではない。その名において自決した人を僕は疑う。負えないからこそ自決したと考える方が真実であるに決まっている。
 僕は自分の行為と思想について責任を負うことが出来ず、しかも生存を欲した者である。責任などという言葉は、社会的裁断に対する思惑にすぎなかったように思われる。いま明瞭に想起されることは、死の危機に瀕したとき、人間はどこまで堕ちていくものなのかということだけだ。尊大から卑小へ、自己過信から自己喪失へ、そして零点のところまで来てでも、生の岸へ這いあがろうともがく。たとい最愛のものに対してさえ、死の切迫裡には、自己の生への微妙な打算は動くようである。これを本能というだろうか。本能であるにしても僕はこれを原罪とよびたい。
 自分の直面した運命を回避し転嫁しようとする気持ちは、検挙のときから既にあった。自分が仲間から強制され、乃至は欺かれ、乃至は時のいきおいに押されて、止むをえずそうなったのだという風な弁明がある。死に脅かされたときふとこの弁明が湧き、しかも一旦そうなると惨落の速度は極めて早いことが自覚された。もし僕が党派の重要な部署にあって、多くの秘密をもっていたならば、このときすべてを曝露し、他の仲間に罪を転じて自己一身の安全を求めたであろう。もし僕が戦争で俘虜になったとしてもおそらく同様であったろう。そして一身の安全が保証された後になって、「責任」についての苦悶を表白したであろう。もし時勢が逆転し、評価が転倒していれば、そのまま何喰わぬ顔で生きていてよい。

(『我が精神の遍歴』 罪の意識  亀井勝一郎 より )

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霧山人
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