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人の姓名は近世に至って著しく符号的になって来た。とりもなおさずこれが仮絶対性を帯びて来た訣なので、その表象は無意義である。その内包は曖昧である。しかも暗示するところはその人格の全体に近からんとしている。もし頼山陽という名を襄(のぼる)先生から取り去ったならば、吾人は襄先生について有している数多の観念の統一を欠くように感じはしないだろうか。学者としての物茂卿と荻生徂徠とは、その範囲に大小がある。柳沢の家臣たる荻生惣右衛門と荻生徂徠とは、その内包に差異がある。皆それぞれその処を得た名であるというのは、あながち独断ではあるまい。すなわち曖昧無意義であるが故に、その人格全体を蔽いつくすことが出来るのである。畢竟人の姓名は、その人格にさきだって存する訣のものではないが、一度名が出来た場合には、その人格全体の表象となさんとする万人共通の主観的事実である。物茂卿といい荻生徂徠といい荻生惣右衛門といい、皆その範囲を異にしているのは、その名によって尠しずつ違ったことを行っていたために生じた差異なのである。
(『言語情調論』折口信夫著 緒論 言語表象論 より )
名前が人格だと定義して、たくさんの名前を使用していた場合、統合失調症(精神分裂)と診断できる。だが、たくさんの名前を無意義ではなく、目的上使用しており、それを大多数の人々が認定した場合は、統合失調症とはいえなくなってしまう。例えば、タレント・芸術家など。大多数が認定してくれずに、たくさんの名前を使用していた場合、統合失調症と言われれば、その名前を抹消しなくてはいけなくなる。どちらにしても、戦前の真似をしたら、精神を病んでいるとイデオロギー的にレッテルを貼られてしまうのかな。
さて、たくさんの名前を、近世来使用する文化があったようだ。本名のほかに、字(あざな)とか、書や絵画を書く場合に用いる号とか、筆名とかを使用してた。だから、同一人物でも、たくさんの名前を使用している人物がたくさんいた。西洋では、たくさんの名前を使うのはアルセーヌ・ルパンとか怪盗といわれる類があり、あまり好印象がない。でも、東洋では名は体を表し、出世魚のように人物がでかくなるにつれて、改名することも多々あった。明治維新の頃は、ほとんどの政治家が名前を改名している。本名を知られてはいけない風潮もあったらしい。現在の日本は、欧米化が進み、怪盗のようなイメージを与えるようだ。まあ、日本が西洋か東洋かという議論は別にしても、名前というものは全くもって不思議なものである。吾輩の場合、大多数が認定してくれなかったので、そのように名乗っても笑われないように、がんばるしかない。
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