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明治生まれで百歳以上、大正生まれで八十歳以上、戦前生まれで六十五歳以上という時代になってきた。そして、昭和の劣化もひどい。だんだんと伝統文化のない社会が広がっている。そういうことを気にしなければいいのだが、何だか無念さがあるようで無視することもできない。
世の中がデジタル化して、単調な社会になった。その単調で画一化された社会は、どう考えても不況になる要素ばかりである。伝統文化がなくなった分、人間の営みである経済を縮小する。
学問が発展して科学的になればなるほど、人間の精神性は奪われていく。科学的思考をしてデジタルな発想になればなるほど、息苦しくなった。なぜだろうと考えれば、こころがあるからだと答えた。そこから、文学へと傾倒するきっかけとなった。科学的に文学を考慮すれば、言語の羅列にすぎないような気がする。でも、その言葉の羅列が感動を生むたびに、言葉の不思議さを思う。生命がただのからくり人形ではないと思える。物質だけから生命がつくられているということを否定する。物質主義に陥りたくないから、文学があった。
人間を人間とも思わない社会は人間をロボットのように扱う。でも、人間には霊性があるから、人間を人間として扱わないと呪いがある。その呪いが事件を呼び、社会を不況に導く。万物生きとし生けるものすべてに霊が宿るということは科学的には証明できないけど、正しいことだと思えた。それは、年齢を重ねれば重ねるほど、そういった思いは強くなった。それは、文学的だと思えるけど非常に重い感じがする。年寄りが死んでいくことによって、さらに先祖崇拝ということがのしかかってくる。先祖崇拝ということは、人類が現在まで続いてきたことの祈念だと思う。
呪いがなければ、人間は人間を簡単に殺すことができる。呪いを恐れれば、人間は人間を殺すことはない。だから、呪いはあるということが証明された。
このように迷信と呼ばれることや信仰などを合理的な意味を探していて、呪われたり、祟られたりするうちに、本当の大切さを覚えるようになってきたようだ。科学者を目指して無神論者になったりしたが、結局神様は存在するということがわかるようになったのは、生きる不思議だ。宮崎には神がいる。
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