平成17年4月6日から平成23年9月6日までのブログ

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無為の大道

 もしもわたしが何ほどかの明知をもつとすれば、

 無為なる大道を無為に歩いて、

 邪路(わきみち)にそれることをこそ戒めるであろう。

 無為の大道は、この上なく平坦なのに、

 人々はとかく邪路(わきみち)にそれたがる。

 朝廷では汚職が横行し、

 田畑は戦乱で荒れほうだい、

 倉庫はまるでからっぽだというのに、

 綺麗な衣服を着飾って、

 立派な剣を腰におび、

 たらふくご馳走にありついて、

 しこたま私財をためこんでいる。

 これを盗人(ぬすっと)の栄華というのだ。

 無為の大道とは似ても似つかない。

              (『老子』下篇 第五十三篇より)

 財政が赤字なのに、事業仕分けのポーズだけして、赤字を増大させ、結局は権力闘争で終る。

本当に終ってしまうことを願っている。

そのためには、何も手を貸さないことだ。

動けば動くほど赤字だ。何もしないことが理にかなっている。

『遊仙窟』の酒の肴

 わたしは、また立ちあがって、礼を述べた。
 「お見事、お見事。どこをとっても、結構なお作です。手前のような愚か者でも、幸いにこの機会を得て、お歌が聴けました」
 まもなく、桂心が酒の肴をはこんできた。東海の鯔魚の条、西山の鳳の肉のまるぼし、鹿の尾と鹿の舌、ほし魚と焼き魚、雁の肉のししびしおに、荇菜の漬物をそえた物、鶉の吸物と桂を加えて米であえた肉汁、熊の掌と兎の股、雉の尾の肉と豺の唇など、山海の珍味が、語りつくせず、言いつくせぬほどならべられた。

(『遊仙窟』 張文成作 今村与志雄訳 より)

 酒の肴とは、酒や食事のたすけになる食べ物。

東海の鯔魚(なよし)の条(すわやり)とは、東シナ海産のボラの肉を細長く割いて乾したものをいう。

西山の鳳の肉のまるぼしは、西山は東海と呼応しており、中国大陸の山岳地帯をいう。鳳とは、鳳凰(ほ
うおう)のこと。聖人が世にでたとき、現れるという吉兆な瑞祥な鳥。鳳はオスである。ここでは、クジ
ャクのオスを用いてはいないか。あるいは、始祖鳥のオス。この鳳の肉を丸干ししたもの。

鹿の尾と鹿の舌。今では中国には養殖しかいないらしい…。

ほし魚と焼き魚。何の魚かはわからない。

雁(がん)の鳥肉を塩漬けにしたもの。

荇菜の漬物は、あさざ、はなじゅんさいの葉っぱの漬物だろう。

鶉(うずら)の吸物。

桂を加え米であえた肉汁(桂糝)とは、牛、羊、豚の肉を小さく切り、米を二、肉を一の割合で一緒に炒めた食べ物だそうだ。『礼記』「内則」にある。桂は、月桂(ローリエ)あるいは肉桂(ニッキ、シナモン)のような香辛料であり、それを加えたものか。

熊(くま)の掌(てのひら)。中国では、熊は保護動物で禁猟種。今は食べれない。

兎(うさぎ)の股。股(また)なんだろう。

雉(きじ)の尾の肉。

豺(さい)の唇(くち)の肉。豺は山犬。狼の類。


このような珍味を仙女は食するようだ。

 道を行うには尊卑貴賤の差別無し。摘んで言へば、堯舜は天下に王として万機の政事を執り給へ共、

其の職とする所は教師也。孔夫子は魯国を始め、何方へも用ひられず、屡々困厄に逢ひ、匹夫にて世を

終へ給ひしか共、三千の徒皆道を行ひし也。

(『西郷南洲先生遺訓』 より)

 道をおこなうことに身分の尊いとか卑しいとかの区別はなく、誰でも行わねばならないことだ。

要するに、中国の堯舜は国王として国のまつりごとをとっていたが、もともとその職業は教師であった。

孔子先生は魯の国をはじめどこの国にも用いられず何度も困難な苦しいめにあわれ、身分の低いままに一

生を終えられたが、三千人といわれるその子弟は皆その教えに従って道を行ったのである。

 葉公政を問ふ。子曰く、「近き者説び、遠き者来る。」

(『論語』 子路第十三 より)

 葉公(しょうこう)が政(まつりごと)を孔子に問うた。孔子が言った。「政を行うには民心を得るこ

とを貴びます。故に近くにいる民は己の恩沢を被って悦び、遠方の民は己の風を聞いて来たり付くように

すべきであります。」

 井上靖著『孔子』にも、この言葉はでてきます。井上靖の「仁」の解釈は、思いやりを示す「仁」と、「大きい仁」の二種類あるようなふうに書いてあった。吾輩としては、「大きい仁」というものは、君子と小人とに分かつことより生じることで、「大きい仁」も思いやりを根本として守るためにたてられたものだろうと思う。そのように解釈しないと、不平等さを煽ることになりかねない。まず、君子と小人ありきの儒教のやり方はおかしいものだ。品性をとやかくいうから、差別が生じるのであって、そこは老荘の思想でカバーしないと、封建社会を擁護しかねないようになる。君子をたてるということは、お金を稼ぐために一生懸命やったのだから、お金持ちを優先させる支配と同じである。お金の社会は、赤字というもので、逆に社会を阻害してしまうという点で、諸刃の剣となっている。老子の思想は、完全に優者劣敗の姿勢を貫くもので、弱者を守る立場として見事であるといえよう。
 

『遊仙窟』の酒器

 
 そうして一同そろって座についた。

 さて、香児を呼んで酒を取りに行かせた。まもなく、三升以上ははいる大きな鉢をささげてきた。

 鉢には、金の鈕と銅の鐶があり、金の小杯と銀の盃が添えてあった。さらに、みつがいやはまぐりの

器、竹の根に細工した器、木のこぶを蝎の口の形にえぐった器があり、まったくまがりくねった形の酒

池、大小とりどりの酒器であった。とりわけ、大きい杯としては、七升入る野牛の角の杯、四升入る犀の

角の杯があり、酒をなみなみとたたえて座中においてあった。白鳥の首、鴨の頭の柄のついた杓が、酒の

上にただよって浮んでいた。

 若い女奴隷の細辛にいいつけて酒をつがせたが、さきに杯を取ろうとしなかった。

(『遊仙窟』 張文成作 今村与志雄訳 より)


 金の鈕(つまみ)とは、蓋(ふた)についているものだろうか。銅の鐶(みみがね)とは、鉢の胴体についている取っ手のことだろうか。金の小杯とは、お椀状の器だろう。銀の盃(さかずき)は、例のうすべったい皿状の酒をつぐ器だろう。みつがいやはまぐりの器は、貝そのものか。竹の根に細工した器は、竹の根っこの節やいぼのついた部分を半分にわって酒を入れる器にしたてた物か。木のこぶを蝎(かつ)の口の形にえぐった(樹蝎脣癭林之形作蝎)器とは、木のこぶに空いた穴の縁に蝎(さそり)の形が作られている器であろうか。まがりくねった(九曲)形の酒地とは、その名のとおり池を想像させるような酒器だろう。野牛の角でできた杯や犀(さい)の角の杯は、とてつもなく大きい。白鳥の頭や鴨の頭が彫ってある柄(え)の部分がついた杓(ひさご)は、ひょうたんあるいは木で作った柄杓(ひしゃく)――神社の水桶においてあるような――であろうか。
 

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