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2010年10月08日
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科学文明は発展したけれど、人間の生活はなかなかよくならない。
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どうして思いついたであろうか、明に至って王守仁(王陽明)という者が現われることがあろうとは。文武兼備、一代の人豪である。その言葉に曰く、「守仁は、若い時は科挙のための勉強をし、志を言葉や文章にのめりこみ、すでにしてすなわち次第に正しい学問に従事することを知った。しかも多くの説の混乱に苦しみ、茫然として入ることができなかった。だから多くを老子釈迦に求めると、欣然(喜んで何かをするようす)として心に会合するものがあった。もってすべからく、聖人の学問がここに在ると。(中略)その後、仕官を貴州省にある龍場に託され、田舎に居り、困窮に拠り、心を動かし性を忍ぶあまりに、恍として大悟があったようだ。体験探求、更に年を経て、多くを六経老子荘子孔子孟子に照らし合わせ、沛然(雨が盛んに降る様子)として江河を決壊して雨水が海に放たれるようだった。その後、聖人の道は平坦で大きな路地のようだった。しかも世の儒者は、みだりに水の通う穴や道を開いて、穴や堀に堕ちて出られない。その説を唱えることを究めると、かえって老子釈迦二氏の下に出る。当然であるかな。世の高明の士が、これを厭うて彼におもむく。これはどうして老子釈迦の罪であろうか。これをもって同志に語れば、すなわち聞く者が競って互いに非難するといっても、しかもいよいよますます精明的確にして、洞然(広々としたさま)また疑うべきでない。ひとり朱子の説において互いに食い違うことがあった。常に心に恥じる。切に疑う。朱子の賢人にして、しかもどうしてここにおいてはなおいまだに察知できないことがあるのだろうかと。その後また朱子の書を取り出してこれを探求し、そうした後に、その晩年に固より大いに旧説の非を悟り、極めて長く痛悔し、もって自分を欺き人を欺くという罪をとげてあがなうべきではないと言うにいたったのを知る。世の伝えるところの集註・或問の類はすなわちその中年未定の説だ。自ら咎めてもってすべからく、旧本の誤り、改め正さんことを思って未だに改めていないと。しかしてその諸語類の属は、またその門人勝心を挟んで、もって己の見解を付ける。固より朱子が悟った後の説と大いにちがった者であった。しかるに世の学者は、見聞に大局して、これを持楯講習するにすぎない。その悟りの後の論においては、大概としてそれはいまだに聞く者はいなかった。すなわちまたどうして私がその言葉を信じられないのを怪しむだろうか。そうして朱子の心、もって自ら後世に顕れることが無いだろうか。私は既に自分でその説を朱子に誤らなかったことを幸いとする。また朱子の先に私の心の同然であることを得たのを喜ぶ。」云云。守仁は実にこれを心理に求め、これを実践に経験し、旧習を洗い流して、別に一家を成した。その勲章また偉大であるかな。
愚かだから、守仁の言葉において、釈然として、始めて、朱熹の常人ではないことを知った。さきに所謂、反噬(恩ある人に背くこと)の説を唱えて自分の論陣を張ったのは、みんな必ず中年未悟の悪弊であろう。それはもし晩年にこのことを悔いるの語がなかったならば、すなわち固執偏見の庸儒である。しかも世の学者は、いたずらに朱熹未定の説を死守してその著書を崇敬して、金科玉条に比類し、またその晩年すでに悔いるの説を求めることを知らないで、競って互いにかれこれやかましく言い、もって聖学を乱す。察知するべきではない。
本邦(日本)の儒士の如きは、その正脈(朱子学)を唱える者、京都に藤原惺窩がいて、近江に中江藤樹 がいた。その後、学風はだんだん衰え、伊藤仁斎 、伊藤東涯 、荻生徂徠 が輩出されるに及んで、心術の学が廃れて記したり暗誦したりするだけという弊害が起きた。爾来、儒者の体裁を見ると、軽薄浮華に失敗しないので、すなわちまた任誕管傲(生れるに任せて管理にするだけでおごること)に失す。しかして毫も省身煉心(身を反省し心を練り鍛えること)の術を求めることを知らない。いわんや大道を究明することにおいてをや。ただ博文強記、詩文を巧みにするを儒者の専務とした。大いに乱れてしまった。悲しいかな、百世聖脈を絶やして、千載真珠のないことだな。(本当の儒学(孔子)の心が失われてしまったことを嘆いている。)
(『禅海一瀾』 今北洪川著 我訳 より )
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