|
維新の頃には、妻子までもおれに不平だったョ。広い天下におれに賛成するものは一人もなかったけれども〔山岡(山岡鉄舟)や一翁(大久保一翁)には、後から少しわかったようであったが〕おれは常に世の中には道というものがあると思って、楽しんでいた。また一事を断行している中途で、おれが死んだら、たれかおれに代るものがあるかということも、随分心配ではあったけれども、そんなことは一切かまわず、おれはただ行うべきことを行おうと大決心をして、自分で自分を殺すようなことさえなければ、それでよいと確信していたのサ。
おれなどは、生来人がわるいから(謙遜・世間にまみれているから悪くなるということ)、ちゃんと世間の相場を踏んでいるョ。上った相場も、いつか下る時があるし、下った相場も、いつかは上る時があるものサ。その上り下りの時間も、長くて十年はかからないョ。それだから、自分の相場が下落したとみたら、じっと屈んでいれば、しばらくすると、また上ってくるものだ。大奸物大逆人の勝麟太郎も、今では伯爵勝安芳様だからノー。しかし、今はこのとおりいばっていても、また、しばらくすると耄碌(もうろく)してしまって、唾の一つもはきかけてくれる人もないようになるだろうョ。世間の相場は、まあこんなものサ。その上り下り十年間の辛抱ができる人は、すなわち大豪傑だ。おれなども現にその一人だョ。
おれはずるい奴だろう。横着だろう。しかしそう急いでも仕方がないから、寝ころんで待つが第一サ。
西洋人などの辛抱強くて気長いには感心するョ。
(『氷川清話』 立身の数々を語る 吉本襄・編 より )
|
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2010年10月23日
|
自分の手柄を陳(の)べるようでおかしいが、おれが政権を奉還して、江戸城を引き払うように主張したのは、いわゆる国家主義から割り出したものサ。三百年来の根柢があるからといったところが、時勢が許さなかったらどうなるものか。かつまた都府というものは、天下の共有物であって、決して一個人の私有物ではない、江戸城引払いの事については、おれにこの論拠があるものだから、誰が何と言ったって少しもかまわなかったのさ。各藩の佐幕論者も、始めは一向時勢も何も考えずに、むやみに騒ぎまわったが、後には追々おれの精神を呑み込んで、おれに同意を表するものもでき、また江戸城引渡しに骨を折るものも現れてきたョ。しかしこの佐幕論者とても、その精神は実に犯すべからざる武士道から出たのであるから、申し分もない立派なものサ。何でも時勢を洞察して、機先を制することも必要だが、それよりも、人は精神が第一だョ。
(『氷川清話』 立身の数々を語る 吉本襄・編 より )
|
|
おれが海舟という号をつけたのは、象山(佐久間象山)の書いた「海舟書屋」(扁額「海舟書屋」 佐久間象山筆)という額がよくできていたから、それで思いついたのだ。しかし海舟とは、もと誰の号だか知らないのだ。安芳(やすよし)というのは、安房守の安房(あわ)と同音だから改めたのョ。実名は、義邦(よしくに)だ。詩は、壮年の時に、杉浦梅潭(兵庫頭勝静)に習い、歌は、松平上総介(主税助忠敏。講武所師範役)に習い、書は、伯父の男谷(彦四郎・男谷 燕斎)にならったこともあるが、手習などに、骨を折る馬鹿があるものか。
おれが子供の時には、非常に貧乏で、或る年の暮などには、どこにも松飾りの用意などしているのに、おれの家では、餅をつく銭がなかった。ところが本所の親族のもとから、餅をやるから取りに来い、と言ってよこしたので、おれはそれを貰いに行って、風呂敷に包んで背負うて家に帰る途中で、ちょうど両国橋の上であったが、どうしたはずみか、風呂敷がたちまち破れて、せっかく貰った餅は、みんな地上に落ち散ってしまった。ところがその時は、もはや日は暮れているのに、今のような街灯はなし、道は真暗がりで、それを拾おうにも拾うことができなかった。もっとも二つ三つは拾ったが、あまりいまいましかったものだから、これも橋の上から川の中へ投げ込んで、帰って来たことがあったっけ。
妻を娶った後もやはり貧乏で、一両二分出して日蔭町で買った一筋の帯を、三年の間、妻に締めさせたこともあったよ。この頃は、おれは寒中でも稽古着と袴ばかりで、寒いなどとは決して言わなかったよ。米もむろん小買いさ。それに親は、隠居して腰抜けであったから、実に困難したが、三十歳頃から少しは楽になったよ。
かつて親父が、水野(忠邦・水野忠邦)の為に罰せられて、同役のものへ御預けになった時には、おれの家をわずか四両二分で売払ったよ。それでも道具屋は、「お武家様だからこれだけに買うのだ」などと、恩がましく言ったが、随分ひどいではないか。その同役の家というのは、たった二間だったが、その狭い所で同居したこともあったよ。その後立身して千石になった時にはよかったが、それが間もなく御免になった時などは、妻が非常に困ったよ。元来おれの家には、その頃から諸方の浪人がたくさん食客にいたのだからのー。それゆえ妻は、始終人に向って、「宿では今度は長く務めていますように」などと言っていたよ。
(『氷川清話』 立身の数々を語る 吉本襄・編 より )
|
|
勝先生(勝海舟)は、必ずしも哲学者にあらず、しかも哲学者たるの頭脳あり。必ずしも経世家にあらず、しかも経世家たるの事業あり。必ずしも君子にあらず、詩人にあらず、しかも君子たり詩人たるの性格と襟懐(心の中の意)とあり。旧幕府の名士たりしと同時に、明治の逸民(隠者同様の暮らしをしている人)たり。眼の人たりしと同時に、手の人たり。而して先生の世に在るや、必ずしも大政に参与せずして、政治家の為にその方針を指示し、必ずしも実務に当らずして、実業家の為に、その正路を示し、必ずしも文芸に長ずるにあらずして、文学家の為に説き、必ずしも宗教に通ずるにあらずして、宗教家の為に喩し、必ずしも教育に関せざる者の如くにして、青年師弟の為に訓戒し、国民は社会の木鐸(社会の指導者)としてこれを仰ぎ、知らず識らざるの間に、先生の感化を蒙りたりき。これ実に先生が、一世の達人たる所以にして、国民が今日に至るまで、その遺徳を追懐して止まざる所以なり。
先生は、氷の如き頭脳に、火の如き感情を有し、炬(かがり火)の如き眼光(何でも見通す眼)に、海の如き度量を有したり。而してその意志は堅実に、その智慮は明達に、その精神は正大に、大事に糊塗(一時しのぎをすること)せず、小事も滲漏(にじみもらすこと)せず。その言う所は行う所にして、行う所はその言う所なり。故に先生の言、時ありて熱罵となり、冷嘲となり、危言となり、痛語となり、政治に、経済に、軍事に、宗教に、文学に、社会に、一切の時事問題にして、先生胸底の琴線(心緒)に触るる時は、一種警醒的教訓(迷いをさまさせる教え)となりて、社会の隅より隅に反響せざるはなし。その故何ぞや。先生の言論は、すべてこれ至誠惻怛(あわれみいたむこと)熱血の迸る所にして、真知を局外に求め、禅機を手中に弄する者あればなり。予がさきに『氷川清話』(明治三十年十一月〜明治三十一年十一月)を撰刊したるは、先生が社会的教訓を紹介せんが為にして、今回その正篇、続編、及び続々編を合冊として、これを世に問うに至りたるもまた已むを得ざるなり。
顧うに、予の始めて該書の刊行を先生に乞いしや、先生懇ろに語りて曰く、「損をしてはならぬから、止めた方が宜かろう」と。また当時先生が枢密院に於て、東久世伯(東久世通禧)、尾崎男(尾崎三良)に会せし時にも、予が為に心配する旨を洩されたりと言う。しかるに、この書一たび世に出づるや、読書社会のこれを歓迎する、あたかも大旱(大ひでり)の雲霓(くもとにじ)に於けるが如く、初版即日に尽き、再版三版もまた旬日を出でずして尽き、かくて版を重ぬること十有余版に達し、次いで続編、続々編も、また同一の勢いを以て、出版界に独行闊歩したりし者は、人心渇望の機に由ると云うと雖も、先生の人物、性格、事業、社会の中心たり、一代の木鐸たるにあらざるよりは、いずくんぞよくここに至らんや。而して先生がかつて予の為に心配せられしは、全く一片の婆心たるに過ぎざりしなり。
先生逝きしよりここに四年、社会の風紀ますます頽敗を告げ、人心茫洋として帰する所を知らず。ここに於いてか、天下先生の風采徳容を追懐して、その片言隻語を珍重し、本書を読まんとする者、いよいよ多きを加うるあり。しかるに、毎編原版ようやく摩滅し、江湖の希望に応ずること能はず。よりて今著、三編を合して、一部の書となし、さらに全躰に改訂を加え、その談話の如きは、性質によりてこれを類別し、かつ原版外の清話数十則を増加し、以て先生に私淑せんと欲する有志の士に頒つこととなしぬ。先生在天の霊にして知るあらば、果して贅挙となし給うや否や。
嗚呼、先生は大人なり。哲人なり。君子なり。その事業必ずしも大ならずと雖も、その徳は盛んに、その教えは長し。しかもその正気凛然、天地の間に磅礴(ほうはく・広がりはびこるさま)たるに至っては、千載朽ちず、永く我が国民の教訓となるや必せり。これ予が本書を選刊してこれを公にせし所以なり。
(明治三十五年十一月)
(『氷川清話』 吉本襄・編 より )
|
|
競技にはリタイアがあるけれど、道は続いていく。
|




