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子曰く、君子は周して比せず。小人は比して周せず。
(『論語』 為政第二 より )
君子は博く衆人を愛して、己の気に入る者ばかりを親しむようなことはしない。
小人は己の気に入る者ばかりを親しんで、博く衆人を愛するようなことはしない。
周す・・・普遍で、広く民衆を愛するのである。
比す・・・私情に従って人に親しむのである。
君子と小人との差別をのべたのである。
君子と小人とは心を用いることの公私によって分かれる。
この語を見ると、君子というものは一般人ではなく、公人であることがわかる。一般人は小人であってもかまわないが、国家の税金から給与をもらっている者には、責任があり、どうしても君子をみならわなければならない。だから、法を守らせる側の責任は重くならざるを得ないだろう。一般人は、そこまでの責任は問われないのだ。
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2010年11月13日
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人間がその周囲の自然界の事物に対する知識経験の基になる材料は、いずれも直接間接に吾人の五感を通じて供給されるものである。生まれつき盲目で視神経の能力を欠いた人間には色という言葉はなんらの意味を持たない、物体の性質から色という観念をぬき出して考える事がどうしてもできない。トルストイ(レフ・トルストイ)のおとぎ話に牛乳の白色という観念を盲者に理解させようとしてむだ骨折りをする話がある。雪のようだと言えばそんなに冷たいかとこたえ白うさぎのようだと言えばそんなに毛深い柔らかいのかと聞きかえした。
それでもし生まれつき盲目でその上に聾(つんぼ)な人間があったら、その人の世界はただ触覚、嗅覚、味覚ならびに自分の筋肉の運動に連関して生ずる感覚のみの世界であって、われわれ普通な人間の時間や空間や物質に対する観念とはよほど違った観念を持っているに相違ない。もし世界じゅうの人間が残らず盲目で聾唖であったらどうであろうか。このような触覚ばかりの世界でもこのような人間には一種の知識経験が成立しそれがだんだんに発達し系統が立ってそして一種の物理的科学が成立しうる事は疑いない事であろう。しかしその物理学の内容はちょっと吾人の想像し難いようなものに相違ない。たとえば吾人の時間に対する観念の源でも実は吾人の視覚に負うところがはなはだ多い。日月星辰の運行昼夜の区別とかいうものが視覚の欠けた人間には到底時間の経過を感じさせる材料にはなるまい。それでも寒暑の往来によって昼夜季節の変化を知る事はある程度までできる。振り子のごとき週期的の運動に対する触感と自分の脈搏とを比較して振動の等時性というような事を考え時計を組み立てる事は可能であるかもしれぬ。しかし自分の手足の届くだけの狭い空間以外の世界に起こっている現象を自分の時計にたよって観測する事はよほど困難である。このような人には時や空間はただ自分の周囲、たとえば方六尺の内に限られた、そして自分といっしょに付随して歩いて行くもののようにしか考えられぬのかもしれぬ。この人にとっては自分の触覚と肉感があらゆる実在で、自分の存在に無関係な外界の実在を仮定する事はわれわれほど容易でないかもしれない。象と盲者のたとえ話は実によくこの点に触れている。
これはただ極端な一例をあげたに過ぎないが、この仮想的の人間の世界と吾人の世界とを比較してもわかるように、吾人のいわゆる世界の事物は、われわれと同様な人間の見た事物であって、それがその事物の全体であるかどうか少しもわからぬ。
(『物理学と感覚』 小宮豊隆編 より )
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未来のことを考えないで、正義を行うことは過ちである。
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子曰く、君子は器ならず。
(『論語』 為政第二 より )
人格の完成した人は、器物がただ一つの用に立つだけで他に通用のできないようなものではない。
道具はただ一つの役に立つだけである。
船は車の代りに陸上を運転させることはできない。
車は船の代りに水上を進行することはできない。
君子は一能一芸を守らないことを述べたのである。
君子は広く事物の道理を究めて何事にも応じることができるのである。
君子とは、とても自由な人である。
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秩序が過ぎると、緊縛抑圧雁字搦めになる。
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