平成17年4月6日から平成23年9月6日までのブログ

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山人考 二 2

 しかも同じ『延喜式』の、中臣の祓詞(はらえことば)を見ますると、なお天津罪と国津罪との区別を認めているのです。国津罪とはしからば何を意味するか。『古語拾遺』には国津罪は国中人民犯すところの罪とのみ申してあるが、それではこれに対する天津罪は、誰の犯すところになるかが不明となります。右二通りの犯罪を比較してみると、一方は串刺・重播・畔放というごとく、主として土地占有権の侵害であるに反して、他の一方は父と子犯すといい、獣犯すというような無茶なもので明白に犯罪の性質に文野の差あることが認められ、すなわち後者は原住民、国つ神の犯すところであることが解ります。『日本紀(日本書紀)』景行天皇四十年の詔(みことのり)に、「東夷(ひがしのひな)の中(うち)蝦夷(えみし)尤も強(こわ)し。男女交り居り父子(かぞこ)別ち無し云々」ともあります。いずれの時代にこの大祓の詞というものはできたか。とにかくかかる後の世まで口伝えに残っていたのは、興味多き事実であります。
 同じ祝詞(のりと)の中には、また次のような語も見えます。曰く、「国中に荒振(あらぶる)神等(かみたち)を、神問はしに問はしたまひ神掃(はら)ひたまひて云々」。アラブルカミタチはまた暴神とも荒神とも書してあり、『古語拾遺』などには不順鬼神ともあります。これは多分右申す国つ神の中、ことに強硬に反抗せし部分を、古くからそういっていたものと自分は考えます。
 
(『山人考』  柳田國男 著 より )

山人考 二 1

 現在の我々日本国民が、数多の種族の混成だということは、じつはまだ完全には立証せられたわけでもないようでありますが、私の研究はそれをすでに動かぬ通説となったものとして、すなわちこれを発足点といたします。
 わが大御門(天皇)の御先祖が、始めてこの島へ御到着なされた時(柳田の説)には、国内にはすでに幾多の先住民がいたと伝えられます。古代の記録においては、これらを名づけて国つ神と申しておるのであります。その例は『日本書紀』の「神代巻」出雲の条に、「吾(やつかれ)は是れ国つ神、号(な)は脚摩乳(あしなずち)、我妻号(わがつまのな)は手摩乳(てなずち)云々」。また「高皇産霊神は大物主神に向ひ、汝(いまし)若し国つ神を以て妻とせば、吾は猶汝疏(うと)き心有りとおもはん」と仰せられた。「神武紀」にはまた「臣(やつかれ)は是れ国つ神、名を珍彦(うずひこ)と曰ふ」とあり、また同紀吉野の条には、「臣は是れ神名を井光と為す」とあります。『古事記』の方では御迎いに出た猿田彦をも、また国つ神と記しております。
 令(りょう)の神祇令には天神地祇という名を存し、地祇は『倭名抄(和名類聚抄)』のころまで、クニツカミまたはクニツヤシロと訓みますが、この二つは等しく神祇官において、常典によってこれを祭ることになっていまして、奈良朝になりますと、新旧二種族の精神生活は、もはや名残なく融合したものと認められます。『延喜式』の神名帳には、国魂郡魂という類の、神名から明らかに国神に属すと知らるる神々を多く包容しておりながら、天神地祇の区別すらも、すでに存置してはいなかったのであります。
 
(『山人考』  柳田國男 著 より )

山人考 一

 私が八九年以前から、内々山人の問題を考えているということを、喜田博士(喜田貞吉)が偶然に発見せられ、かかる晴れがましき会に出て、それを話しせよと仰せられる。一体これは物ずきに近い事業であって、もとより大正六年やそこいらに、成績を発表する所存をもって、取掛かったものではありませぬ故に、一時は甚だ当惑しかつ躊躇をしました。しかし考えてみれば、これは同時に自分のごとき方法をもって進んで、果して結局の解決をうるに足るや否やを、諸先生から批評していただくのに、最も好い機会でもあるので、なまじいに罷り出でたる次第でございます。
 
(『山人考』  柳田國男 著 より )

縄文人の食糧危機

 6300年前に気候最適期が終り、しだいに気候が冷涼・湿潤化(東日本)していくなかで、日本海側ではブナやスギの拡大がみられた。気候の冷涼・湿潤化のなかで、縄文人にとってはたいせつなドングリやクリのなる食糧の木が、打撃を受けたのである。
 5700年前の気候の冷涼・湿潤化によって、沖積上部砂層の堆積が急速に進行した。それは縄文社会へ重大な影響を与えた。内湾の環境が沖積上部砂層の発達で大きく変わった。潮干帯が遠方に後退し、ハマグリなどがとれなくなった。この内湾の資源の変質が、縄文時代中期の人々を内陸の資源により結びつけ、内陸部の大地や丘陵に定住させるようになった。このように内湾の水産資源を失った縄文人は減少せざるを得なかった。
 縄文文化は、縄文時代中期末にもう一つの大きな転換期を迎える。中部山岳の縄文時代中期の輝くばかりの文化は、縄文時代中期末に突然崩壊する。それは、とりわけ中部山岳地帯(長野県から東日本にかけて)を中心とする縄文時代中期文化の崩壊を引き起こした現象は、5700年前以降、悪化した気候条件が4200年前にさらに著しく悪化したこと、すなわち、現在よりも冷涼な気候になったことに起因する。
 内陸部の堅果類(ドングリ・クルミ・クリの類)の集約的利用を生産の背景として、大発展を遂げた中部山岳の縄文時代中期の文化は、縄文時代中期後半には、最高の人口に達していた。しかし、縄文時代中期末に相当する4200年前のさらなる気候の冷涼・湿潤化のなかで、ドングリ類の不作がつづき、食糧危機に陥った。それはまた高い人口密度のゆえに、気候悪化による食糧資源の不足にも弱かった。高い人口圧のもとでは、気候変動によって引き起こされたわずかな不作によっても、食糧危機が引き起こされた。
 中部山岳で縄文時代中期末のカタストロフィック(破局的)な崩壊を経験し、移住を余儀なくされた人々は、いったいどこへ行ったのであろうか。もちろん一部の人々は、飢えと寒さのなかで死亡したであろう。その後にあたる縄文時代後期には集落は中部山岳から関東の海岸部や西日本へと移動・分散したのである。
 
(『古代文明の興亡』より抜粋 安田喜憲著 )
 
 これは東日本のことであるが、縄文人の生活は決して楽なものではなかったことを示している。縄文人は、人口の増加は見込めずに、辛抱した苦労の多い生活を余儀なくされていたのだ。そこに、天孫降臨(西日本でのことだが)によって、稲作が導入されたことは、安定した村社会を形成するうえで、非常に益があったにちがいない。縄文時代よりも弥生時代の方が比較的生活が改善されたことは、計画的に食糧を自給できるようになったことによるところが大きい。そして、そのような農村が見捨てられようとしている。日本近海の漁獲量は激減し、外国産の魚介類に頼らざるを得ない現状は耐え難い。海外の魚介類に頼るということは、海外の魚介類の減少を促していることも考慮しなければならない。
 目先の利益に惑わされて、その天然資源を浪費すると、縄文人のように食糧危機に陥って、生存が危ぶまれるようになるので漁獲制限はきちんと守るようにしたほうがようだろう。乱獲はやめようではないか。農業のような計画性をもった食糧管理が望まれるだろう。
 
                                  霧山人
 

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