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科学は99%の確率を信じるが、宗教は1%の奇跡を信じる。
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2010年12月17日
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今日のように非人間的に徹底したように見える物理学でもまだ徹底しない分子を捜せばいくらでも残っている。たとえば力という観念でも非人間的傾向を徹底させる立場から言えばなんらの具体的のものではなく、ただ「物質に加速度が生じた」という事を、これに「力が働いた」という言葉で象徴的に言いかえるに過ぎないが、普通この言葉が用いられる場合には何かそこに具体的な「力」というものがあるように了解されている。これは人間としてやみ難い傾向でまたそう考えるのが便宜である。また他の例を取れば物理学でも右左という言葉を用いる、しかしこれも人間というものから割り出した区別で空間自身には右もなければ左もあるはずはない。もしどこまでも非人間的な態度で行けば物理学の書籍からこのような言葉を除去しなければならぬはずであるが、実際は平気でこれを使用している、この一事あでも非人間主義の物理学が人間の便宜のために膝を屈している事はわかるだろう。
ある人は著者に物理学の教科書を幾何学教科書のような画一的なものにしたいものであると言ったが、自分はそれはむつかしかろうと考える。数学のように最初全く任意に(もっとも経験から暗示されるものではあるが)一つの概念を与えあとは解析ばかりでその内容を展開するのと、物理学で自己以外の実在として与えられた外界の現象を系統立てるのとはよほど趣がちがわなければなるまい。たとえば一つの自動車を作ってその機械の自己の作用で向かう所にどこまでも向かわせる場合には便宜とか選択の問題は起こらぬ、車は行く所にしか行かぬのであるが、これが解析的な数学の行き方とすれば物理学のはそうではない。このような自動車のハンドルを握って四通八達の街頭に立っているようなものである。同じ目的地に達するのでも道筋の取り方は必ずしも一定していない。そこで経路の選択という問題が起こり、この選択の標準とするものはつまり人間の便宜である、思想の節約である。この際もし車掌がある一つの主義を偏執してたとえば大通りばかりを選ぶとするとそれを徹底させるためには時にはたいへんな迂路を取らねばならぬような事があるだろう。ただ一筋の系統によって一糸乱れぬ物理学の系統を立てようという希望は決して悪くはないが、人間の便宜という点から考えるとそれはむしろ不便である。大通りが縦横に交差してその間にはまた多数の「抜け裏」のあるような、そういう複雑な系統として保存し発達さるべきものではないかと考える。
(『寺田寅彦随筆集』 第一集 小宮豊隆編 より )
『論語』や『仏典』は人間の学問だが、『物理学』は物質の理学である。
そこで、二十世紀の初頭、『唯心論』と『唯物論』の戦いが現れた。
しかし、現在、人間すら物質でつくられているとしても、人間の心は大事なものであるということを承認せねばなるまい。
霧山人
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高校のときは、受験勉強はせずに、読書ばかりしていた。
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天狗を山人と称したことは、近世二三の書物に見えます。或は山人を天狗と思ったという方が正しいのかも知れぬ。天狗の鼻を必ず高く、手には必ず羽扇を持たせることにしたのは、近世のしかも画道の約束みたようなもので、『太平記』以前のいろいろの物語には、ずいぶん盛んにこれを説いてありますが、さほど鼻のことを注意しませぬ。仏法の解説ではこれを魔障とし善悪二元の対立を認めた古宗教の面影を伝えているにもかかわらず、一方には天狗の容貌服装のみならず、その習性感情から行動の末までが、仏法の一派と認めている修験・山伏とよく類似し、後者もまたこれを承認して、時としてはその道の祖師であり守護神ででもあるかのごとく、崇敬しかつ依頼する風のあったことは、何か隠れたる仔細のあることでなければなりませぬ。恐らくは近世全く変化してしまった山の神の信仰に、元は山人も山伏も、ともに或る程度までは参与していたのを、平地の宗教がだんだんにこれを無視しまたは忘却して行ったものと思っております。
今となってはわずかに残る民間下層のいわゆる迷信によって、切れ切れの事実の中から昔の実情を尋ねて見るのほかはないのであります。一つの例をあげてみますれば、山中には往々魔所と名づくる場処があります。京都近くにもいくつかありました。入って行くといろいろの奇怪があるように伝えられ、従って天狗の住家か、集会所のごとく人が考えました。その奇怪というのは何かというと、第一には天狗礫(てんぐつぶて)、どこからともなく石が飛んでくる。ただし通例は中って人を傷けることがない。第二には天狗倒し、非常な大木をゴッシンゴッシンと挽き斫る音が聴え、ほどなくえらい響を立てて地に倒れる。しかも後にその方角に行って見ても、一本も新たに伐った株などはなく、もちろん倒れた木などもない。第三には天狗笑い、人数ならば十人十五人が一度に大笑いをする声が、不意に閑寂の林の中から聴える。害意はなくとも人の肝を寒くする力は、かえって前二者よりも強かった。その他にやや遠くから実験したものには笛太鼓の囃しの音があり、また喬木の梢の橙の影などもあって、じつはその作者を天狗とする根拠は確実でないのですが、天狗でなければ誰がするかという年来の速断と、天狗ならばしかねないという遺伝的類推法をもって、別に有力なる反対者もなしに、のちにはこうして名称にさえなったのであります。
(『山人考』 柳田國男 著 より )
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遵法精神を揺らがせるのは、日本を破綻に導くためだ。
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