平成17年4月6日から平成23年9月6日までのブログ

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物理学と感覚 6

 近年プランクなどは従来勢力のあったマッハ一派の感覚即実在論に反対して、科学上の実在は人間の作った便宜的相対的のものでなくもっと絶対的な「方則」の系統から成立した実在であると考え、いわゆる世界像の統一という事を論じている。しかし退いて考えるとあるいはこれはあまり早まりすぎた考えではなかろうかと疑わざるを得ない。プランクは物理学を人間の感覚から解放するという勇ましい喊声の主唱者であるが、一方から考えると人間の感覚を無視すると称しながら、畢竟は感覚から出発して設立した科学の方則にあまり信用を置きすぎるのではあるまいか。もし現在の科学の所得は、すでに科学の究極的に獲得しうるすべての大部分であると考え、吾人の残務はただそこかしこの小さい穴を繕うに過ぎぬと考えればプランクの説はもっともと思われる。しかしそう考えるだけの確かな根拠があるかどうか自分には疑わしい。物理学の範囲内だけでも近ごろ勢力を得て来た量子説が古典的な物理学と矛盾していて、まだどうしてもその間の融和がとれないところを見てもプランクの望むような統一はまだ急に達せられそうもない。
 今のところでは生物界の現象に関しては物理学はたいてい無能である(まだこの頃はDNAは発見されていない)。レーブ(ジャック・レーブ)のごとき一派の学者が熱心に努力しているにもかかわらず今のところ到底目鼻もつかぬようである。生物現象がすべて現在の物理学で説明せきようとは思われぬが、しかしプランクが無生物質界の方則の統一を理想とするならば、もう一歩を進めて物理生理あるいは心理学までも包括して渾然たる一つの「理学」という系統がいつかは設立されるという理想をいだく事もできない事ではない(今では実現されたようにも思われる)。それがもしも可能であるとすればそうなるまでには今の物理学はまだまだよほど根本的な改革を受けなければなるまいと思う。
 このような考えからも自分はマッハの説により多く共鳴する者である。すなわち吾人に直接に与えられる実在はすなわち吾人の感覚である、いわゆる外界と自身と精神との間に起こる現象である。このような単純な感覚が記憶や連想によって結合されて経験になる。これらの経験を総合して知識とし知識を総合して方則を作るまでには種々な抽象的概念を構成しそれを道具立てとして科学を組み立てて行くものである。この道具になる概念は必ずしも先験的な必然的なものでなくてもよい。以上のごとく科学を組み立て、知識の整理をするに最も便利なものを選べばよいのである。その便不便は人間の便不便である、すなわち思考の節約という事が選択の標準になるのである。
 
(『寺田寅彦随筆集』 第一巻 小宮豊隆編 より )

野菜の生育 4

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                  自然と生えてくる菜っ葉
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                  でかすぎ水菜(千本菜)
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               今年にして初めて丸くなった白菜
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                     楽チンな大根
 
 うまいこと育った野菜たち。
 
 まあ、なかなか育たない野菜もある。
 
 どうやら土壌に関係ありそうである。土が酸性になっていると、育ちにくい野菜があるらしい。
 
 石灰を撒けばいいけど、落ち葉の灰で代用するけど、石灰のほうが手っ取り早い気がする。
 
 とても寒い日々が続く・・・。
 
 なんだか、疲れ気味だ。
 
                                    霧山人

山人考 六 3

 しかも必ずしも魔所といわず、また有名な老木などのない地にも、やはり同様の奇怪はおりおりあって、或る者は天狗以外の力としてこれを説明しようとしました。例えば不思議の石打ちは、久しく江戸の市中にさえこれを伝え、市外池袋の村民を雇入れると、氏神が惜んでこの変を示すなどともいいました。また伐木坊(きりきぼう)という怪物が山中に住み、毎々大木を伐倒す音をさせて、人を驚かすという地方もあり、狸が化けてこの悪戯をするという者もありました。深夜にいろいろの物音がきこえて、所在を尋ねると転々するというのは、広島で昔評判したバタバタの怪、または東京でも七不思議の一つに算(かぞ)えた本所の馬鹿囃子の類です。(宮崎県都城市の母智尾神社で似たような伝えがある。)単に一人が聴いたというのなら、おまえはどうかしていると笑うところですが、現に二人三人の者が一所にいて、あれ聴けといって顔を見合せる類のいわゆるアリュシナシオン・コレクチーブであるために、迷信もまた社会化したのであります。
 私の住む牛込の高台にも、やはり頻々と深夜の囃子の音があると申しました。東京のはテケテンという太鼓だけですが、加賀(石川県)の金沢では笛が入ると、泉鏡花君は申されました。遠州(静岡県)の秋葉街道で聴きましたのは、この天狗の御膝元にいながらこれを狸の神楽と称し現に狸の演奏しているのを見たとさえいう人がありました。近世いい始めたことと思いますが狸は最も物真似に長ずと信じられ、ひとり古風な腹鼓(はらづつみ)のみにあらず、汽車が開通すれば汽車の音、小学校のできた当座は学校の騒ぎ、酒屋が建てば杜氏の歌の声などを、真夜中に再現させて我々の耳を驚かしています。しかもそれを狸のわざとする論拠は、みながそう信ずるという事実より以上に、一つも有力なものはなかったのです。
 これらの現象の心理学的説明はおそらくさして困難なものでありますまい。常は聴かれぬ非常に印象の深い音響の組合せが、時過ぎて一定の条件のもとに鮮明に再現するのを、その時また聴いたように感じたものかも知れず、社会が単純で人の素養に定まった型があり、外から攪乱(こうらん)する力の加わらぬ場合には、多数が一度に同じ感動を受けたとしても少しもさしつかえはないのでありますが、問題はただその幻覚の種類、これを実験し始めた時と場処、また名づけて天狗の何々と称するに至った事情であります。山に入ればしばしば脅かされ、そうでないまでもあらかじめ打合せをせずして、山の人の境を侵すときに、我と感ずる不安のごときものと、山にいる人の方が山の神に親しく、農民はいつまでも外客だという考えとが、永く真価以上に山人を買い被っていた、結果ではないかと思います。
 
(『山人考』  柳田國男 著 より )

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霧山人
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