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孔子曰く、憤を発し食を忘れ、老の将に至らんとするを知らず。
古人云く、「凡そ大道を学ばんと欲する者は、先づ須らく大憤志・大疑団・大信根 を具備すべきは、猶ほ鼎に三足有るがごとし。一を欠けば則ち達成せず」と。固に 然り。而して発憤を最も主と為す。発憤洪大なれば、悟る所も洪大なり。発憤浅小 なれば、悟る所も浅小なり。宣尼は発憤して食を忘れ、能仁は発憤して山に入り、 孟軻は断機に依りて発憤し、神光は発憤して臂を断つ。是れ皆な発憤の洪大なる 者なり。古来大道を担当するの英傑は発憤の一事を成さざる莫し。
抑々道は高なり峻なり。予が如き謭劣の輩の企て及ぶ所以の者に非ず。唯だ専 ら発憤の志を立つるを以て竟に志願を成就し以て平生を慶快するに至る。謹んで 博学高才の人に白す。若し吾が大教の誹駁せんと欲せば、須らく発憤して吾が禅 海に入り、先づ自己の本性を見得すべし。而して広く仏祖の書を読み、徧く其の理 を究め、然る後に間然す可き処有らば、唾して之を罵倒するも固に好し。若し未だ 嘗て其の境涯を踏まずして漫りに之を論ずれば、是れ盲評瞎論なり。吾総て取ら ず。昔宋の仁宗の朝、李覯なる者有り、欧陽修と韓愈の排仏を慕ふ。時に大儒と 称す。明教嵩を一見して後、意を仏書に留め、研究之を久しうし、乃ち喟然として嘆 じて曰く、「吾が輩の議論、尚ほ未だ一巻の般若心経にも及ばず。仏教豈に知り易 からんや」と。看よ真個境界を歴る底の人の論は幡然常情を超出すること是くの如 し。
(『禅海一瀾』 今北洪川 著 より )
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2010年12月27日
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孟軻曰く、君子は引いて発せず。躍如たり。中道にして立つ。能者之に従ふ。
「大匠は拙工の為に縄墨を改廃せず。羿は拙者の為に其の彀率を変ぜず。」
古人学者を鍛錬するの術は皆是くの如し。山野亦常に之を用ふ。未だ敢て学者の 為に辞色を貸さず。只だ学者之を自得せんと欲するのみ。躍如とは、功夫純熟な れば、則ち自得の妙理機に触れ縁に逢うて躍如として現前するの時節を謂ふ。是
に於てか、始めて他の為に祕を発せば、他之を得て徹底せず。徹底せざれば則ち 痛快ならず。半信半疑、却つて師伝を軽忽するに至る。若し又、其の時節を待ちて 発せば、則ち飢人の食を得るが如く、大旱の雨を得るが如し。珍重慶快、拳拳失は ず、竟に其の大志を成就するに至る。人に師たるの道、慎まざるべ可けんや。孔子
一隅を示すの意、亦推して知るべきなり。
(『禅海一瀾』 今北洪川 著 より )
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