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気と気との親和、協応、交錯、背反、掊搏、相生、忤逆、掩蔽などの種々の状、一気の生、少、壮、老、衰、死などの種々の態、一日の人の気、一日の時の気、一節乃至一年、十年、百年、千年、万年、万々年の気、一人の気、一交友団の気、一階級間の気、一職業団の気、一国の気、一人種の気、一世の気、これらのあるいは短、あるいは長、あるいは小、あるいは大なる気の種々状態を観察し、批判し、導引し、廻転し、洗滌し、鍛冶し、浄濾し、精錬し、而してその微なるは一瞬の懐を快くし、一事の功を成し、一心の安を得るより、その大なるは天下万々年億兆の気をして一団の嘉気たらしむるに至る、これを気の道というのである。 |
幸田露伴の努力論
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しかし吾が身を観るに我が所摂でなき如きものがあり、わが所知でなき如き運動が行われて居るのを覚える。肺臓の如き、心臓の如き、胃の如き、腸の如きものが、わが命を得て後に運動して居るのでないことは明らかである。爪の如き、髪の如きものが、われに属して居るものではあるが、我が料簡し感思し命令する所以のものとは甚だ遠き距離を有して居ることも明らかである。髪の如きは某甲既に死して後なおその生長を続けるのである。これらの物は我の部分なるが如くまた外物なるが如く、庭前の松柏、路傍の石礫と同視することは出来ぬけれども、しかもまた我と相遠きを覚える。けだし是の如きはまた古の人をして身心を分離して考えるに至らしめた一端であろう。肺臓心臓の如きものが吾人に近きことは、髪や爪とは大に異なって居る。しかし吾人は吾人の肺臓や心臓が何の状を為して居るかをも、解剖学の図面もしくは模型、または他人の実物を目にするより以外に知らぬのである。盲腸の如き、生活状態の変化したる今日の吾人には何の用をもなさずして、かえって病患を貽すほかには作用なき物の体内に存在して居るのは、吾人が料簡し感思し命令する所以のものから言えば、摘出し駆除したくも覚ゆべきものである。これは我が中の矛盾である。腸の無用の長さの如くも、吾人が爪を剪るが如く容易に短く為し得るならば、あるいはこれを短縮せんことを敢てするであろう。これも我の中の矛盾に近い。是の如くに我の中に我の所摂ならざるが如きものあり、また矛盾をさえ認むべきものがある位であるから、仮に我を分って二とし、身とし心とし、器とし非器とするに至るも無理はない。是の如く看来るに、身心は分つべきが如くである。 |
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器分は非器分を離れて存し得るであろうか、また非器分は器分を離れて存し得るであろうか。器分即ち非器分で、身即心ではあるまいか。非器即器で、心即身ではあるまいか。古の人はあるいは身を外にして心あることを思い、あるいは心を外にして身あることを思い、身心を分離し得るように考えたものもある。その思想の由って来ることを尋ぬるに、けだし人死して身なお存し、而してその感思し料簡し命令する所以のものの存せざるに至れるを見たるより発したのであろう。また身少しも動変せずして、而してその感思し料簡し命令する所以のものの活動するに似たる夢というものを認むるより発したのでもあろう。また身の欲する所と心の欲する所と牴牾するが如き場合、即ち慾と道義心との相争う場合などを省察したるより発したのでもあろう。しかし死の場合には身なお存して心の遊離するのではない。死する時には身もまた破壊せられずに存して居るのではない。あるいは心臓鼓動の力尽き、もしくは障害あるにより、あるいは脳血管の破るるにより、あるいは不時の失血多量により、あるいは呼吸器障害もしくは欠損により、あるいは体温の昂騰により、その他種々の器分の破壊生ずるにより、その死を致すもあるが、しかもその死と同時に器分のある物が破壊欠損せらるるは疑うべからざることである。死の因、死の縁は種々無量であるが、器分の破壊欠損せられずして身なお生けるが如くなるに、心鼓休み肺鞴動かざるに至るを以て神既に去るを見て、非器分と器分とを分離し得べきように考えたのであろう。而して稀に見るところの蘇生者の談話は非器分の遊離を思わしめ、また他世界の存在をも思わしめるに与かって力があったろう。但し蘇生者が多く他世界の談を為すこと、たとえば智光の古談の如きは、即ちその人なお真に死せずして不完全ながら脳作用を継続し居たるを証するものであり、また微量ながら脳に向って血液の供給されて居たことを語るものである。夢は心理及び生理の併合作用である。もしくは生理より惹起さるる心理作用であるとして差支ない。身の欲する所と牴牾する場合も、詳しく省察すれば碁の争いの如きもので、交替争闘である。同時争闘ではない、一室一主である、一室二主ではない。なお詳しく省察すれば、輾転して休まざる一の骰子のあるは一を示しあるいは六を示して居るようなもので、本これ一個物である、最小時間においては二者相対して居ないのである。是の如く看来るに、身心は分つべからざるが如くである。 |
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器分を離れて人は存在せぬ。非器分なしにも人は存在せぬ。否、器分を離れたり非器分を離れたりして人の存在するということは、詩境以外には想像することさえ甚だ難いのである。基督教の霊魂や小乗仏教の我体は、器分と分離して後、なお審判を待ったり、六道に輪廻したりして居ること、提灯から抜け出して蝋燭がなお光って居るが如く、またランプが壊れてしまって心も油壺も別々になってからなお光明が存して居るが如く、また電燈球が砕けて終ってからなお光明が存するが如くである。それは実に玄妙でもあり、また然様いう道理も存在して居る。が、それは圏外の玄談である。世人の間にも死したる人に幽霊があり、生きて居る人に生き霊があると言われて居る。それも実に然様で、幽霊もなくはない、生霊もあることである。が、それも圏内の談にあらずである。あると思って居るものが実はないものだという理を談ぜねば、ないと思って居るものが実はあるものだということを示すことは難い。神の道を棄てて動物の道を真とし、卓絶した智見を排して普通智識を以て一切を律せんとする多数本位の今日の世の中にあっては、身を離れて人の存するなどということを思い得るものもない。心がなくて人というものが成立つなどと思うもののないのは知れきった事である。 |
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人には器と非器とがある。人の器と非器を併せて一の人が成立つのである。臓腑より脳髄、骸骨、筋肉、血液、神経、髪膚、爪牙などに至るまで、眼見るべく手触るべくして空間を填塞せるもの、即ち世の呼んで身となすところのものはこれ器である。その人の器の破壊せられざる存在は即ちその人の存在である。また眼見るべからず手触るべからず空間を填塞せずして存する、名づけ難く捉え難きものがある。世は漠然とこれを呼んで心となすのであるが、これ即ち非器である。非器の破壊せられざる存在は即ちその人の存在である。この器分と非器分とを併せて呼んで人というのである。真実をいえば、器も非器も仮の名である、身も心も便宜上の称である。人というものをXとすれば、身はXより料簡、感思、命令などをなすものを除き去ったものを、仮に名づけて身というのである。 |


