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草木は動物と違って、ある地点に植えらるればまた自ら移動する能わざるものであるが、断えず努力して新しい土へ新しい土へとその根を伸張させているものである。で、土中においてある障害に遭遇してまた根を新土に挿入する能わざるに至れば、その発達は停止するの傾を為すが、幸にして障害物の罅隙などを穿って復び新しい土地にその根を伸張するを得れば、俄然として活気は増加し、発達は復び遂げらるるのである。庭上の松柏の類の生長発達に間歇があって、俗にいう「節」のある育ち方をするのもこの理である。盆栽の如きは最小範囲に固定せられて生を保つものであり、新しき土地に根を伸張せんにもその途を得ざるが故に、自然に放置すれば幾年ならずして枯死するを免れぬのであるが、巧にこれを保って老蒼の態を生ぜしむるの技を有する人の為す所を見れば、常に抑損法を施して居るのであって、あるいは枝を剪りあるいは芽を摘みあるいは花葉を芟り去って居る。自然に放任すれば伸びるだけ伸びて、即ちある極度の発達を遂げるから、その後はまた発達するに能わざるに至り、終に漸々凋枯衰死に赴くのであるが、未だ十分にその極度に至らざるに先だって抑損せらるる時は、なお幾分の発達の余地が存せらるる。また発達する。畢竟するところ鉢裏においては発達の極度は甚だ低微であるが、その低微なる極度に達せざるに先だって抑損法を施して常に発達の余地あらしむる時は、その植物の先天的命数の存する限りは時間において永く発達の余地を存して居る理に当る。そこでその発達の余地に向ってその植物は絶えず発達しつつ、行くところの生を遂ぐるの道は人為に因って処理されて循環的に行わるるから急速の枯死を免れて、年月と共に老蒼の態を為し得るのである。上に挙げた庭前の松柏は自ら新境を求めるのであるが、この盆栽の植物は人為によりて与えらるる自体の新状によって生を保つのである。またある宿根草は旧根の一方に偏しては新根を下して、そして旧根は漸く朽腐するがために、あたかも歩行するが如く移動するものもある。これもまた新境の現前を欲して、新土の中より自己の生を遂ぐるに適した養分を吸収せんがために然るのであろう。 |
幸田露伴の努力論
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されば境遇善変の場合には、直接と間接との二の理由よりして張る気が生ずるのであるが、なおその他に、善変、悪変、不善不悪変の三の場合を通じて、すべて新境の現前ということは張る気を生ずる理がある。それはすべて新しき刺激は心海に新しい衝動を与えて波浪を煽るものであって、そしてその波浪の活動衝激は心海の死静を破り、腐気を掃蕩し、元気を振策するがために、自ら気の張るを致すというのに本づいて居るので、新境の現前は言うまでもなく新しい刺激を与えるからである。詳しく言えば一切の生物にはその活力の存する限りは、変に応じ新に対して自己を防衛保存せしむるために外境に対抗する作用が先天的に与えられて居るので、その対抗作用が振興される場合には、他の一面において今まで長くある任務に服して疲憊して居た精神の一部分が休養を得ると同時に、今まで長く閑地にあって脾肉の感を有していた部分が猛然として起ってその力を伸べるというが如き情態を現わし、あたかも政局一新して老吏は帰田し新才は登用されたる時、廟廊の上活気横溢するものあるに髣髴たる状をなす気味があるより、身心全体の沈衰もしくは平静が破られて、そして興奮もしくは発展が惹起される。人類に限らず他の動物でも植物でも、長く同一状態にある時は衰斃枯凋を来す道理がある。動物が同一状態を繰返す時は身体及び精神の同一器質及び機能のみが使用されるから、ある程度までは進歩するが、それから後は倦怠疲弊を致すを免れない。植物は常にその根幹茎葉を張って自然に同一状態にあることを避けて居るが、もし盆栽の如く常にその根幹茎葉を張って自然に同一状態にあることを避けて居るが、もし盆栽の如く常に同一範囲内にあらしむれば、その葉を剪り枝を除き、あるいは肥料を与うるなどの処置が巧妙で、そして努めてその単調を破るにあらざる時はある程度に至って枯死する。一年生植物でも荳科茄子科植物の如きが連作を忌むのは、明らかに同一系統の者を永く同一状態を繰返すの不利を証して居るといってもよい。人もこの理の摂する所たるを漏れない。境遇変転して、南船北馬日も足らずというような困難流離の生活をする者が、意気銷沈するかと思えばかえって然もなくて、美妾左右に侍り膳夫厨に候するというような安逸の生活を続けるものが、勇往の気永く存するかと思えばかえって尫弱で、ややもすれば腸胃病乃至神経衰弱やなんぞに罹っているものが多い。境遇の固定はたしかにある度までは幸福であるが、ある度を過ぐれば発達進歩を停止し、次に萎靡不振を来し、張る気を保つを得ざらしむるのである。 |
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張る気の起こし方について、要点をまとめてみた。 |
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我が全幅の精神を以て事に当り務を執るということは、正直にさえあったならば何人にも容易に出来そうなことであるが、しかし然様容易に出来るものでない。ある人には散る気の習癖が附いて居り、ある人には即ち弛む気の生ずる習癖が附いて居る。その他逸る気の癖であるとか、戻る気の癖であるとか、暴ぶ気の癖であるとか、空ける気の習であるとか、亢ぶる気の習であるとか、種々の悪い気の習があるものであるから、なかなか以て張る気をのみ保って居ることはないのである。蝋燭の心を剪ってより暫時は漸く明らかになる、それは張る気であるが、またやがて暗くなるのは火の気が燼に妨げられて弛み弱るからである。護謨球のやや古びたのは既に気が足らなくなって居るから、一時は温暖の作用によって張っても、また頓て弛んで弾撥反跳の力は衰えるのである。 |
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さて、変ずるありて定まるなきは人のもとより免れぬことである。無機物有機物皆然るのである。しかし変の中にも不変あり、無定の中にも定がある。江海の朝は朝の光景を呈し、暮は暮の光景を呈するが如く、人もまた生より死に之くまでの間にある規道を廻りて、そして漸く長じ、漸く老い、漸く衰うるのである。個人の事情はしばらく擱いて論ぜず、また人間の心理や生理の全部に亙る談はしばらく措いて語らないで、今は人の「気の張弛」について語ろうとおもう。 |




