平成17年4月6日から平成23年9月6日までのブログ

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幸田露伴の努力論

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進潮退潮6

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 草木は動物と違って、ある地点に植えらるればまた自ら移動する能わざるものであるが、断えず努力して新しい土へ新しい土へとその根を伸張させているものである。で、土中においてある障害に遭遇してまた根を新土に挿入する能わざるに至れば、その発達は停止するの傾を為すが、幸にして障害物の罅隙などを穿って復び新しい土地にその根を伸張するを得れば、俄然として活気は増加し、発達は復び遂げらるるのである。庭上の松柏の類の生長発達に間歇があって、俗にいう「節」のある育ち方をするのもこの理である。盆栽の如きは最小範囲に固定せられて生を保つものであり、新しき土地に根を伸張せんにもその途を得ざるが故に、自然に放置すれば幾年ならずして枯死するを免れぬのであるが、巧にこれを保って老蒼の態を生ぜしむるの技を有する人の為す所を見れば、常に抑損法を施して居るのであって、あるいは枝を剪りあるいは芽を摘みあるいは花葉を芟り去って居る。自然に放任すれば伸びるだけ伸びて、即ちある極度の発達を遂げるから、その後はまた発達するに能わざるに至り、終に漸々凋枯衰死に赴くのであるが、未だ十分にその極度に至らざるに先だって抑損せらるる時は、なお幾分の発達の余地が存せらるる。また発達する。畢竟するところ鉢裏においては発達の極度は甚だ低微であるが、その低微なる極度に達せざるに先だって抑損法を施して常に発達の余地あらしむる時は、その植物の先天的命数の存する限りは時間において永く発達の余地を存して居る理に当る。そこでその発達の余地に向ってその植物は絶えず発達しつつ、行くところの生を遂ぐるの道は人為に因って処理されて循環的に行わるるから急速の枯死を免れて、年月と共に老蒼の態を為し得るのである。上に挙げた庭前の松柏は自ら新境を求めるのであるが、この盆栽の植物は人為によりて与えらるる自体の新状によって生を保つのである。またある宿根草は旧根の一方に偏しては新根を下して、そして旧根は漸く朽腐するがために、あたかも歩行するが如く移動するものもある。これもまた新境の現前を欲して、新土の中より自己の生を遂ぐるに適した養分を吸収せんがために然るのであろう。

 (『努力論』 幸田露伴 新潮退潮 より )

進潮退潮5

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 されば境遇善変の場合には、直接と間接との二の理由よりして張る気が生ずるのであるが、なおその他に、善変、悪変、不善不悪変の三の場合を通じて、すべて新境の現前ということは張る気を生ずる理がある。それはすべて新しき刺激は心海に新しい衝動を与えて波浪を煽るものであって、そしてその波浪の活動衝激は心海の死静を破り、腐気を掃蕩し、元気を振策するがために、自ら気の張るを致すというのに本づいて居るので、新境の現前は言うまでもなく新しい刺激を与えるからである。詳しく言えば一切の生物にはその活力の存する限りは、変に応じ新に対して自己を防衛保存せしむるために外境に対抗する作用が先天的に与えられて居るので、その対抗作用が振興される場合には、他の一面において今まで長くある任務に服して疲憊して居た精神の一部分が休養を得ると同時に、今まで長く閑地にあって脾肉の感を有していた部分が猛然として起ってその力を伸べるというが如き情態を現わし、あたかも政局一新して老吏は帰田し新才は登用されたる時、廟廊の上活気横溢するものあるに髣髴たる状をなす気味があるより、身心全体の沈衰もしくは平静が破られて、そして興奮もしくは発展が惹起される。人類に限らず他の動物でも植物でも、長く同一状態にある時は衰斃枯凋を来す道理がある。動物が同一状態を繰返す時は身体及び精神の同一器質及び機能のみが使用されるから、ある程度までは進歩するが、それから後は倦怠疲弊を致すを免れない。植物は常にその根幹茎葉を張って自然に同一状態にあることを避けて居るが、もし盆栽の如く常にその根幹茎葉を張って自然に同一状態にあることを避けて居るが、もし盆栽の如く常に同一範囲内にあらしむれば、その葉を剪り枝を除き、あるいは肥料を与うるなどの処置が巧妙で、そして努めてその単調を破るにあらざる時はある程度に至って枯死する。一年生植物でも荳科茄子科植物の如きが連作を忌むのは、明らかに同一系統の者を永く同一状態を繰返すの不利を証して居るといってもよい。人もこの理の摂する所たるを漏れない。境遇変転して、南船北馬日も足らずというような困難流離の生活をする者が、意気銷沈するかと思えばかえって然もなくて、美妾左右に侍り膳夫厨に候するというような安逸の生活を続けるものが、勇往の気永く存するかと思えばかえって尫弱で、ややもすれば腸胃病乃至神経衰弱やなんぞに罹っているものが多い。境遇の固定はたしかにある度までは幸福であるが、ある度を過ぐれば発達進歩を停止し、次に萎靡不振を来し、張る気を保つを得ざらしむるのである。

(『努力論』 幸田露伴 進潮退潮 より )

進潮退潮4

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 張る気の起こし方について、要点をまとめてみた。
 第一には、「我と我が信との一致の自覚」から起きる。自分が正しいと思うことと自分との間に、相反することがなくて一致したことがあると自覚したようならば、人はこれ位勇気の渾身に満ち張ることはないだろう。自覚することがいよいよ強固になって長く養われれば、ますます気が張り得るようになるから、遂に一気徹底して至偉至大のことを成し遂げるであろう。
 第二には、「意の料簡」によって張る気を生じる。人は境遇の変化によって意の一大転換をすることがあり、一大発作をすることがあるのである。背水の陣をしいたときに、奮起するのと同じ事である。気が張って事を成したからと言っても、必ずしも成功を収めるとは限らないが、人の天から享けただけのものを十分に使用し尽くすことにおいては、天豈無禄の人を生じるであろうかというくらいである。よって、その人の分限相応だけには労作の報を受けて、案外に張る気という善気の結果を現出することができて、
そうまでも吉祥というまでもないけれども大凶というにもいたらないものである。
 第三には、「情の感激」から張る気を生じる。嫉妬の念、感恩の念、憤怨、恨怒、憎疾、喜悦、誠忠、その他諸種の情の感激は、時にややもすれば人をして張る気を生じさせる。歴史や伝記や戯曲や小説における佳い話は、多くの情の感激より善にして正しい気の緊張の終に良い結果を結ぶことに傾いているといってもよい。
 第四には、「智の光輝」によって張る気を生じる。張る気は人の学才智慮を拡大すること、なお膂力意気を拡大するようなものであるから、智光いよいよ輝けば気はいよいよ張り、気いよいよ張れば智慮学才はいよいよ拡大されて、その人は自ら意識せずに自己の最高能力を発揮する。
 第五には、美術および音楽等に寓存された他人の強大なる張る気から張る気は生じる。これは特に張る気だけがそうなるのではない。人はすべて共鳴作用のような心理を持っているのである。だから、甲人の萎えた気は乙人の萎えた気を誘引し、丙人の散る気は丁人の散る気を誘引する。その他すべて多少によらずある人のある気は他のある気を起こさせるのである。
 狂気というものは、散る気、凝る気、戻る気、暴ぶ気、沈む気、浮く気などあらゆる悪気の錯雑醞醸して、時、境の二圏の輪郭の破砕を致すに及んで発するものであるのだが、その気は一切の悪の気の最たるものであるから、やや伝染感染の作用をなす場合がある。これを廃するには、張る気の起こし方を実践してみるべきである。

                                       霧山人

進潮退潮3

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 我が全幅の精神を以て事に当り務を執るということは、正直にさえあったならば何人にも容易に出来そうなことであるが、しかし然様容易に出来るものでない。ある人には散る気の習癖が附いて居り、ある人には即ち弛む気の生ずる習癖が附いて居る。その他逸る気の癖であるとか、戻る気の癖であるとか、暴ぶ気の癖であるとか、空ける気の習であるとか、亢ぶる気の習であるとか、種々の悪い気の習があるものであるから、なかなか以て張る気をのみ保って居ることはないのである。蝋燭の心を剪ってより暫時は漸く明らかになる、それは張る気であるが、またやがて暗くなるのは火の気が燼に妨げられて弛み弱るからである。護謨球のやや古びたのは既に気が足らなくなって居るから、一時は温暖の作用によって張っても、また頓て弛んで弾撥反跳の力は衰えるのである。
 張る気の反対の気は弛む気である。気というものは元来「二気を合せて一元となり、一元が剖れて二気となる」ものであるから、必らずその反対の気を引きあい、生じあい、招き合い、随え合うものである。そこでたまたま張る気を以て事に当り務を執って居ること少時であれば、直にまた反対の弛む気が引き出されて来て、漸くにして張る気は衰え、弛む気は長じて来ること、譬えば進潮の長く進潮たり得ずして、やがて退潮を生ずるが如くである。で、折角張る気を以て事に処し物に接して居ても、反対の弛む気が頓て生じて来る。これが一難である。

 (『努力論』 幸田露伴 進潮退潮 より )

進潮退潮2

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 さて、変ずるありて定まるなきは人のもとより免れぬことである。無機物有機物皆然るのである。しかし変の中にも不変あり、無定の中にも定がある。江海の朝は朝の光景を呈し、暮は暮の光景を呈するが如く、人もまた生より死に之くまでの間にある規道を廻りて、そして漸く長じ、漸く老い、漸く衰うるのである。個人の事情はしばらく擱いて論ぜず、また人間の心理や生理の全部に亙る談はしばらく措いて語らないで、今は人の「気の張弛」について語ろうとおもう。
 誰しもが経験して記憶していることであろう。人には気の張るということと気の弛むということとがある。気の張った時の光景、気の弛んだ時の光景、その両者の間には著しい差がある。張る気とはそもそも何様いうものであろう、弛む気とはそもそも何様いうものであろう。何かは知らず、人の気分が張ってのみも居らず、弛んでのみも居らず、一張一弛して、そして張った後は弛み、弛みたる後は張りて循環すること、譬えばなお昼夜の如く朝夕の如く、相互に終始して行くことは誰しも知って居ることである。
 試みに人の気の張った場合を観よう。張るとは、内にある者の外に向って拡がり発し伸び長ぜんとする場合を指していうが普通の語訳である通りに、その人の内にあるある者が外に向って伸張拡張せんとする状を呈したる時に、これを気が張りたりというのである。努力して事に従うという場合には、なお一分の苦を忍び痛に堪えるの光景を帯びて居る。譬えば女子の夜に入りて人少き路を行くに、その心恐怖を抱きながらも強いて歩を進むるような場合をば、努力して事に従って居るというのである。また人あって流に逆って船を行るに、水勢の我に利あらずして腕力既に萎えんとしたる如き時、なお強いて櫓を繰り篙を張るを廃せず、流汗淋漓として労に服する場合などをも、努力して事に従うというのである。努力して事に従うのは素より立派な事ではあるが、なおその中に一縷の厭悪の情や苦痛の感の存するのを認め得べきである。然るに同じ女子の同じ寂寥の路を行くにも、もしその女子が病母の危急に際して医を聘せんがために、孝思甚だ深き余り、ただ速かに母の苦を救わんとするの念慮熾んにして走り、路次の寂寥をも意とするなくして行くとすれば、そのごとき場合を指して「気が張った」と人は言うのである。また同じ流に遡りて同じ人の船を行るにも、某々の処に多大の魚群を認めたりという報に接して、漁利を思うこと切なる余り一刻を争って遡り、また流の強きと腕の疲れとを問う暇なくして労に服すとすれば、その如き場合を指して「気が張った」と言うのである。勿論努力にも気の張りは含まれて居る。気の張ったにも努力は含まれて居る。しかし努力というのには些少にせよ苦痛を忍ぶところが含まれて居る気味があるが、気の張って事を做す場合には苦痛を忍ぶということは含まれて居ないで、苦痛を忘れるとか、乃至はこれを物の数ともしないというような光景が含まれて居るのである。微細に観察すると相似て居る中に相異なったところがある。深夜に書を読み学に従う場合の如き、更闌け時移って漸く睡を催して来るに際して、意を奮い志を励まして肯て睡らぬのは努力である。学を好んでおのずからに睡を思わざるのは、気の張りである。努力は「力めて気を張る」のであり、気の張りは「おのずからに努力を生ずる」のである。二者の間に相通ずるところの存するのは勿論であるが、努力も好い事には相違ないが、気の張りは努力にも増して好ましいことである。

 (『努力論』 幸田露伴 進潮退潮 より )

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