平成17年4月6日から平成23年9月6日までのブログ

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幸田露伴の努力論

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進潮退潮1

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 詳らかに精しく論ずる時は、世に「時間」というものの存在する以上は、同一の物というものは実に存在せぬのである。ここに一本の松の樹が存すると仮定する。その松樹の種子よりして苗となり、苗よりして稚松となり、地松よりして今存するところの壮樹となりたるまでは、時々刻に生長し居るのであって、昨日の該松樹が昨年一昨年乃至一昨々年の松樹と異なるが如く、昨日の該松樹と今日の該松樹とは必らず異なって居るのである。もしまたその松樹にして漸く老い、漸く衰え、一半身は枯れ、終に全く枯るるに至るとすれば、明日の松樹もまた今日の松樹と異なり、明年の松樹もまた今年の松樹と異なるのである。一切の物は皆一松樹の如きのみである。いやしくも「時間」なくして存在するものが世になき以上は、一切の物は時間の支配を受けて居るのである。然る時はある時のある物は、「ある時間を以て除したるある物」である。その物の始より終までは、「ある時間を乗じたるある物」である。

 (『努力論』 幸田露伴 進潮退潮 より )

静光動光22

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 気血の関係は前に略説したが、その点からして生ずる道理で、散る気の習を除く第三の道には、血行を整理するという一箇条があるが、これは今ここに説破する事をしばらく擱くとしよう。如何となれば生中血行の事などを文字言語によりて知って、これをいじり廻しては悪果を来さぬとも限らぬからである。ただここに挙げ置くは、酒類はこれを用いる事よろしきを得ざる時は血行を乱すものであるからなるべく用いぬがよろしい事、呼吸機能を完全に遂行する事、唱歌吟詠によって血行を催進する霊妙の作用の大有力なる事などの数点に止める。
 要するに、血を以て気を率いる勿れ、気を以て血を率いよ、気を以て心を率いる勿れ、心を以て気を率いよ、心を以て神を率いる勿れ、神を以て心を率いよである。血を整えて気に資し、気を煉りて心に資し、心を澄まして神に資せよである。血即ち気、気即心、心即神で不二不三である。気の悪習の中、散る気の習は、先ず目前の刹那についてその因を除けというのである。瑣事に実参体得して自ら気の消息を知れというのである。如法に修行せば二、三週にして直に真着手の処を知らんというのである。

 (明治四十一年三月)

 (『努力論』 幸田露伴 静光動光 より )

静光動光21

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 前に述べたような場合でなくても、義理の上から何方を取ってもよい事ならば、すべて趣味に随順して不興不快の事を棄てるという事は、気を順当にし、かつこれを養う上において非常に有力な事であり間接に気の散る習などを除く事に何程の功があるか知れぬ事である。芝居の好きなものは芝居を観、角力の好きな者は角力を観、盆栽いじりの好きなものは盆栽をいじるが好いのである。趣味は気を涵養して生気を与え、かつ順当に発動せしむるにおいて大有力なものである。これを喩うれば、硫黄の気を好む茄子の如き植物に硫黄の少ばかりを与え、清冽の水を好む山葵の如き植物に清冽の水を与えるのは、即ち茄子や山葵を壮美ならしめてその本性を遂げしむる所以なのであって、茄子は茄子の美味の気、山葵は山葵の辛味の気をその硫黄や清水から得来るのであるから、人の趣味に随順する事は気の上からは非常に有力の事なのである。もしそれを趣味に随順せずして茄子に清冽の水を与え、山葵に硫黄を与えるような事をすれば、二者の気は各々萎靡して、共に不妙の結果を現わさずには終らない。本来趣味なるものは本具の約束から生じて来るものなのであるから、これに随順するのは非常に緊要なのである。山水に放浪するのを好むもの、美術を鑑賞して悦ぶもの、銃猟馳駆を快とするもの、皆各々異った事で各々異った作用をなすが、本具の約束に応ずる事なら何も随順したがよい。但し気を耗し気を乱るものはよろしくない。淫事、賭博などは人の性質によりて殊にこれを好むものもあるが、如何に本具の約束だといってこれを放縦にすれば、気は耗り気は乱れるから、節制禁遏せなければならぬのは勿論である。

 (『努力論』 幸田露伴 静光動光 より )

静光動光20

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 然れば今ここに画を描くのを非常に好むものがあって、その者が親兄弟の勧誘に従い、自ら励みて、自分の好まぬ僧侶たらんと志して、厭々ながら三蔵に眼を曝すとすると、何様してもその気が全幅を挙げて宗教の事には対わないで、おのずから絵画の方へ赴きたがる傾があるものである。斯様なものを強いて仏学なら仏学をさせると、表面はよいようでもやはり至極の好い処には至らぬものである。何となればそれは絵を好むべき遺伝などがあり、絵に強烈な趣味を有するに至った幼時の特殊の出来事などがあり、物品景色の象を写し取るに巧みな慧性を有し、手裏に整均妙巧な線を描く力や、微玄な色彩を鑑別弁識し得る眼の力などを具備し、物象の灸所を捉える作用を会得し居るものとすれば、その人はおのずからにして画伯たるべき運命を有するようなもので、換言すれば僧侶たるべからざる運命を有して居るようなものであるからである。その様な人が強いて宗教を修めるとすると、何様しても気は散るのであるが、然様いうのは散る気の習が付いて居る人に甚だ酷く肖て居るけれども、実は気の散る習が付いて居るというよりも、他の事に気が凝って居るのであるといった方が適切なのである。で、然様いう人を強いて宗教なら宗教の方へ心を向けるように修行させれば、修行をするだけの功の顕われぬという事はないが、しかしそれはむしろ愚かな事で、もし然様いう場合で気が散り乱れるならば、それはむしろ趣味に随順して、思いきって宗教の事を捨て、そして好むところの画技ならば画技に心を委ねてしまう方がよいのである。散る気の習はおのずから除けるのである。

 (『努力論』 幸田露伴 静光動光 より )

静光動光19

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 散る気の習を除く第二の着手の処は、趣味に随順するのである。およそ人というものは各々その因、縁、性、相、体、力があって、そして後にその作用を発するものであるから、いわば先天的の約束のようなものがあるといってもよい。一飲一啄もまた前定であるという語があるが、さほどに運命を信じ過ぎても困るけれど、先ず先ず何様しても好き、何様しても嫌いなどという事もないのではない。画を描くのは、親が禁じても好きなものもある。病人いじりをする医者になるのは、親兄弟が勧めても何様しても嫌いだというものもある。僧侶になりたがるものもないではないし、軍人をえたより嫌うものもないのではない。それは各自の因縁性相体力なのであるから、傍よりこれを強いる能わざるのみならず、当人自身にも足らないけれども、趣味の相違ということの存在する事は争われぬ事実である。

 (『努力論』 幸田露伴 静光動光 より )


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