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一月は二節である。一節は上り潮と下り潮との一回環を為し、一潮はあたかも七日余である、而して潮は節々月々に少しづつ逓減逓増して、春において昼間の大高潮大低潮を為し、秋において夜間の大高潮大低潮を為し、春秋昼夜を以て一年の一大回環を為し遂ぐるのである。潮や節や月の盈昃や、これらの点から観察して、ある潮のある時は何様であるとか、ある節のある場合は何様であるとか、ある月齢の時は何様であるとかいうことを、気の弛緩の上について説きたくは思うが、胸裏の秘として予の懐いているものはあっても、敢て人前に提示するまでには内証が足らぬから言わぬ。しかし一日において自らに張る気の存するが如く、ある節、ある潮、あるいはまた月のある時において、自らにして張る気の時のあることを信ぜぬ訳には行かぬ。蟹の肉は月によって増減し、イトメの生殖は潮によって催さるる如く、一切庶物が自然からある支配を受けて居ることは争うべからざるものがある。ただ壮歳の婦人のみが月々にその身体に影響を受けているのではない。 |
幸田露伴の努力論
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これ故に人は、この自然の力が人をして自らに気を張らしむる払暁より暮までの間に、自己の分内からも気を張って何事にも従うがよい。わが気さえ張れば夜に当って事に従い務に服してもよいには相違ないが、それは自己分内の消息においては可であるが、自然圏内の消息においては不可である。自然に順応して、自然と自己とが協和諧調して張る気になった方がよろしい訳である。風に逆っても舟を行り得るものではあるが、風に順って舟を行った方が巧は多い。自然に逆らってわが分内の気をのみ張るのは、たとえば北風の吹いている中に強いて舟を北行せしむるが如きである。陽にして善、明らかにして正しき気は朝において張る。陰にして悪、闇くして邪なる事に従うならばいざ知らず、いやしくも然らざる限りは、朝の張る気の中に涵って而して自己の張る気を保って事に従い務に服するを可とする。是の如く内外相応ずる、これを二重の張る気という。 |
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なお一歩進めて説こうか。夢は最も明らかに心身両者の関係状態を示せる適切な事例である。夢は言うまでもなく精神上の過程である。受、想、感情、記憶、智慮、意識等が不完全ではあるが働いて居る事を否定する訳にはゆかぬ。この夢というものは、是の如く是の如き夢を夢みんと欲して而して後に夢みるものではない。精神上の過程であることは争われぬ事実であるけれども、吾人が前夜において是の如き精神労作を為さんと欲して、そして夢みるのでないことは明瞭である。即ち期せずして来るところのものである。わが精神内に起るところの事ではあるが、おのずからにしてある夜は夢みるのである。この夢の生ずる所以を心理的に解釈すれば何らかの解釈を索め出し得ぬことはない。しかしそれは夢の中のある物件またはある事態の何故にその人の心海に湧出して夢となったかということを解釈し得るに過ぎないで、全体に夢の起る所以を解釈し得はせぬのである。たとえば鳩が文筥を啣み来った夢の、その鳩、その文筥、文使いという諸件については、その夢みた人の心理に立入って推測する時は、不明白ながらも幾分の解釈を得よう。しかしそれは夢の中の事態物件の由って来れる所以を解釈し得たのではない。如何となれば、夢みつつある時といまだ夢みざる時とのその人の事情や境遇や心理は殆ど同様であるのに、一、二時間前は夢みず一、二時間後は夢みる、その所以如何ということは、心理の上では解釈に及び難い理であるから是非もないのである。 |
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心と身とを全く区別して考えるのも非であるが、また全く同一なりと考えて、心即身、身即心とするも非である。二者は是一にして即二、是二にして即一なのである。吾人が睡りつ寤めつするのは、睡らんと欲して睡る時もあり、寤めんと欲して寤むる時もあるが、また睡らんと欲するにあらずしておのずからに睡り、寤めんと欲するにあらずしておのずからにして寤むる時もある。吾人が寤めて而して精神作用を起し出し、做し出すに当って、仔細に観察する時は、ある事を思いある業を執らんがために寤めたのではなくて、寤めたるがためにある事を思いある業を執るに至る場合も本より少くない。即ちおのずからにして寤めたるがために精神労作を開始することもあるのである。前夜就眠の時に当って、明朝五時において覚めて而して猟に赴かんと思い、あるいは六時に覚めて直に文を草せんと思いて、そして五時あるいは六時に起き出すことも本より少くはないが、然様いう精神の命令あるにあらずして、しかもおのずからにして寤むることもまた少くない。もしそれおのずからにして寤むる場合は、これをその人の精神、詳言すれば自意識よりして身体において精神作用が開始されたのであるといわんよりは、これをその人の身体、詳言すれば血液の運行状態よりして睡眠境が攪破されて、そして精神作用が開始さるべくされたのだといった方が適当である。 |
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朝における人の気の張っているのは、これを生理的にも解し得る。先ず第一には疲労の回復の出来て居ることである。即ち体内の廃残物の処置は睡眠中に整えられて終って排泄機に附さるるばかりになっているのであり、新しい活動の起さるるに適した状態になって居る。疲労の原因たるものは疲労を起すべき位置にあらずして、殆ど除去されんとして居るのである。第二には胃が空虚になって、胃部附近に血液の充実することがなくなって居るのに反し、脳には脳の作用を活潑に営むに堪うる血液が注がれて居るために、精神機能は十分にその能力を揮うを得るのである。毀傷によって脳蓋骨の剥離した人が実験に供されて、脳の働く場合には血液の潮上の要さるることが明白になってから、捕捉して証明し難きものになって居た精神の労作も、また筋肉の労作と同様に解知さるるに至ったのであるが、精神労作も実に血液を要するのである。腸胃中に物ある時は腸胃は運動して、而して腸胃部に血液は潮し集まるのであると同時に脳部は微少ながら貧血を惹起して、精神労作は弛緩遅鈍となるの傾をなす。食後に眠を催すに徴してこの事知るべしである。貪食の睡の因をなすことは何人も知ることで、睡ることを欲せざる時に食を少くするが利あるのは、跋伽林外道のしたような事を暫時にせよ試みた者などの知って居ることである。仏法の僧侶は元来睡眠を取るべきものでないので、離睡経の睡眠を呵して居るのを見ても、阿那律失明の談に照らして見ても明白なことであるが、その教条とその僧侶に日に三度などは食せざるのが釈迦在世の時の行儀であったこととを合せ考えて見ると、すべて形式を軽視する傾のある今日の僧らのかえって浅薄なることを思わずには居られない。さて脳が血液を消費した場合には、勢としてその消費の廃残物が堆積する。廃残物はすべて毒威を有するものであるから、精神労作より生じた廃残物は精神労作を弛緩ならしめ遅鈍ならしめる。その極は睡眠を致し、もしくは不快の頭痛を惹起すに至るのであるが、ある時間の休息中にはこれら廃残物は体内機関によりて漸く搬出されるのである。廃残物の搬出せられて新鮮なる血液の脳に潮するに及んでは、脳はまた漸くにして爽快に働き出す。是の如くにして労作と休息とが交互に行わるるのは吾人の普通状態である。 |




