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冬月と私は、飫肥の城壁の外へ出て、武家屋敷の続いている、暖かい路地を歩いていた。そこには、和服姿のご婦人や観光客を引き連れたガイドさんの姿も見受けられた。スーツに身を固めた男性もいれば、冬月のように着流しを着た人もいる。こういうのを、平等な世界というのかもしれない。東洋と西洋という区引きを取り除いてしまえば、結局、そこには、個人における自由な姿が生じてくる。それが思想であろうと、習俗であろうと、あまり関係がない。そこに利害関係が絡んでくるから、人の世は住みにくくなるのだ。法律で、世の中の問題を解決できるかもしれないが、その後には必ず心の問題が残る。それは、どこの人々であろうとも同じであると思うのであった。
法的な問題は、合理主義という左脳の問題の解決である。しかし、心の問題は、感性という、未知にちがいない不思議な右脳における事柄にちがいない。東洋的な感性というものを、合理的に説明するのは、おそらくこれからの学問の役目に違いないだろう。心の問題は、やがて文学の中に閉じ込められていった。そして、歌や絵画などの芸術の世界に閉じ込められていった。その解放というものは、観光地における楽園でしか担えないであろうし、都会という合理性の城壁に閉じ込められた窮屈な世界にとって、住みやすさを提供する心の回復でもあるのだろう。 私は歩きながら、いろいろと考えていた。冬月は、伊東伝左衛門屋敷の門を見つけると、中に飛び込んでいった。着流しの冬月にふさわしい家屋があった。白い紙の張った障子に、まだ青みの残る畳に、縁側があった。庭には、南国らしく蘇鉄が植えられていたが、南天やキンモクセイなどの庭木が生えていた。武家といえども、そういった平和な世の中では、草木を愛でるという文化が生じていたのだ。冬月は、薩摩の町々を転々と引越ししてきたという経歴があるから、伝左衛門の屋敷のような造りの家にも住んでいた。だから、懐かしい趣きを味わっていたのだった。海の人々、山の人々、武家の人々といっても、平和な世の中で、草木を愛でるという文化としては共通のものがあるのである。 冬月と私はのどが渇いたので、自動販売機でジュースを買って飲み干すのだった。武家屋敷の人々も、時代に対応したものは、その門構えは残しながらも、見事に西洋文明を取り入れて生きつづけているのだった。冬月は、次の目的地として、最も興味深い学問所『振徳堂』に行くことにした。儒学が飫肥の地に入ってきたのは、寛政年間だったろう。徳川幕府が儒学を入れたのが、慶長五年に藤原惺窩・北肉山人を謁見させたのが始まりだから、それから約二百年が経過している。それでも、明治四年の廃藩置県まで多くの人材育成がなされました。清武町に生家がある安井滄洲・息軒が教授・助教をしていた。冬月は、悠塾を窮々亭と共につくり、あぶれていた学生を集めて、作物を作ったり、勉強をしたりしていたが、やはり未熟さというものがあり、悠塾の解散という憂き目にあっていた。さまざまな事情があったにせよ、この目論見には無理があって、まだまだ己の修練の至らなさが身に染みてわかってきたのであった。また、神・仏・儒という伝統的な心学を講究しなければならない、そのように決心するのであった。 フィクションです。
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小説・霧山幻想(リメイク中)
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飫肥の城下町というからには、お城があって、武士が住んでいたということになる。寺島良安著の『和漢三才図会』によると、「武士(もののふ)。武は戈(ほこ)と止からつくる。戈を止め武をなすという意味である。物部。剛く彊く道理に実直なのを武という。勇ましい彊さが徳に匹敵するのを武という。また、よく過乱を平定するのを武という。民を刑し、克く服させるのを武という。学んでたゆまず自分の地位を保持しつづけるのを士という。神武天皇の時代に、ウマシマチノミコト・道臣命の武功すぐれた二人があった。道臣命が司っている軍兵を来目部と称したが、ウマシマチの司っている軍兵には物部という姓を賜った。それから武士のことを物部(もののふ)と称するようになった。」という。
武家にもいろいろあるが、武士の始まりはこのようなものらしい。農・工・商の人々が二刀を下げてはいけなくなったのは、江戸時代からであるそうだ。物部氏についてだが、聖徳太子がいたころ、蘇我氏との政争に敗れた物部氏は、ここ日南より南の地、大隈半島の有明・原田まで逃げてきたという言伝えがあるらしい。これでは、今から千五百年もの歴史を述べなくてはいけなくなる。とにかく、鎌倉時代から武風が強くなり、戦乱の多い歴史を背負うこととなったようであるのだ。福澤諭吉は、封建遺制を酷く憎んだのは、それだけ自由がなく、雁字搦めであったためであろう。 やがて、飫肥城の駐車場についた。冬月はタクシーを下りて、見渡すと真坂野交通のバスが停まっていた。飫肥を舞台に、『わかば』というドラマがあった。おみやげやの前を通っていると、中年の男が、「もう、舞台が変わっているからな。」と、移りやすい今の人々の心情を吐露していた。それでも、過去の記憶とは関係なく、その意気込みだけは残っているように見受けられた。荒城の月とは、よく言ったものではあるが、さまざまな人々が武士しか入れなかった城壁の中に入れるようになったのは、明治維新の賜物ではあったろう。飫肥で有名なのは、小村寿太郎であるが、日露戦争でのポーツマス条約の功績については、国民の側から見れば、現在につながるものであるために、非常に複雑な思いを抱く冬月がいた。日本の借金はどうなってしまうのであろうか。 明治政府は、薩長による武家政権であった。明治維新で失業を余儀なくされた武士たちの拠り所であった。官になったり、先生になったり、商売に身を染めた武士もいたであろう。君主のいなくなった武士たちは、忠君愛国という言葉をつくって、保身を図っていた。 本丸へと向う冬月は、ぶつぶつと何かを唱えている。飫肥城は、伊東氏の居城として、二百八十余年も続いたが、廃藩置県で、飫肥県から都城県へと移る過程で、館や楼・櫓のすべてが破壊されてしまった。城の内部には、飫肥小学校のグラウンドができていて、その西側にある小高い所に本丸の跡がある。本丸跡に向かう途中に、なんじゃもんじゃの木が生えていた。学名はヒトツバダゴというらしい。いろいろな植物が生えている。もう、サクラはいつの間にか散っていた。登る石段の脇には、ツワブキがあった。石段を登りきると、そこには『わかば』の主人公が元気を取り戻したという旧本丸の姿があった。飫肥杉が植えられてはいたが、岩やタブノキなどの当時の名残も確かに現存していた。冬月は、その残された息吹を感じて、少しばかり元気を取り戻しつつあった。飫肥の名産品・杉材も日本を飛び立っているのだった。その本丸跡の断崖に立つと、木々の暗がりに向こうに、酒井川が流れているのが見えるのだった。失われていく歴史というものがあるのかもしれない。 フィクションです。
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鵜戸神宮の社殿を後にする冬月と私は、鵜戸山八丁坂と呼ばれる、約800mもの石段をかえることにした。行きには気づかなかったが、石段はまっすぐと山の頂上まで続いており、その山頂には別当の墓地が広がっていた。別当とは、神宮寺の寺務を司る者で、ここにお寺があったことを意味していた。明治の廃仏毀釈のときに、廃寺にされたのだろう。それまでは、神仏習合とか言って、別段、厳密に神や仏を分けて信仰していたわけではなかった。神と仏を分けて祀ろうとし始めたのは、合理的な思考というものが西洋から入ってきたためだろう。鵜戸山では、両部神道という神仏習合した一大道場となっていて、「西の高野」とも呼ばれていた。
このような信仰が可能であったのは、あの山幸彦・海幸彦の伝説があったからであろう。海幸彦は退けられてしまったが、山幸彦と海神の娘は仲がよかったので、沖縄のほうでは、オボツ・カグラ、ニナイ・カナイといい、奄美のほうではテルコ・ナルコと呼ばれる信仰になったのだろう。つまり、山の神・海の神を一緒に祀ったということである。もともと、八百万の神々という多神教的な世界観をもっていたくらいだから、山の神と海の神を同時に祀る事くらい造作もなかっただろう。そして、山の神の上に仏教がのっかってきた。そのような感覚で、海の人々は信仰していたのかもしれない。こういうことは、理屈が先ではなく、感覚的に察するしかないだろう。だいたい、日本人は感性の鋭い人種で、こういった時代に合理的に考える人は、ほとんど稀であったにちがいない。だから、神様と仏様を一緒にしたりする大胆さがあった。現代日本人には、ちょっと理解できないかもしれないが、それで神様と仏様が争うということがなくなったということは、量りがたい平和という恩恵であっただろう。物事が緻密すぎると、かえって争い事が生じてしまうという欠点がでてくる。それが、幕末・明治以降の戦乱に巻き込まれた歴史を生み出している。神と仏を分断するということは、それまで仲良くしている者共を引き裂いてしまったのだった。和を以て貴しと為すという聖徳太子の教えは、大和の思想につながっているのだ。 我々は、次の目的地・飫肥の城下町に行くことにした。日南海岸を経て、飫肥に至ると、ほぼ日本の歴史の流れがわかってくる。神話の時代から、仏教伝来、そして武士の世の中である。冬月たちの乗ったタクシーは、油津を抜けて、飫肥の町にやってきた。油津は、小さな港町で、吾平津と呼ばれ、神武天皇の日向での妻・吾平津姫の生誕地として伝えられる場所である。神武天皇の実在は伏せられているが、おそらく大和と日向のある事件での確執が絡んでいると見られるが、これは時代の問題であるので、時代と相談して、進むべきであろう。吾平津姫は、ここでは乙姫とも呼ばれるから、神武天皇は浦島太郎だったのかな。 フィクションです。
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冬月は、亜季と二人でこの鵜戸神宮にやってきたとき、亜季がそこから先に進むことを断ったという話をした。亜季は都会的なアメリカ文化が好きであった。そのような趣味の違いが離婚の原因であったのであろう。冬月は日本の伝統文化を背負ってしまっているところがあった。このように、冬月と亜季との生活習慣の違いが、日向神話の世界に妙にマッチしているという嘆きがあった。つまり、別れをイメージするということだ。イザナギとイザナミの黄泉の国での別れ、そして、ホホデミノミコト(山幸彦)と海の神の娘(豊玉姫)との結婚もうまくいかなかった。神武天皇も妻をおいて遠くに行ってしまっている。うまくいったのは、天孫降臨のニニギノミコトと山の神の娘であるコノハナサクヤヒメとの結婚、そして神武天皇の父、ウガヤフキアエズノミコトと海の神の娘(玉依姫)との結婚である。海の神の娘は自由奔放であったのだろう。しかし、この御両名とも単身赴任をしていたらしい。ともかく神話の世界は、家庭運はなかった。
だんだんと、白菜も地鶏もしょうゆで茶色に染まっていく。それを卵につけて、食べる。わさび漬けとご飯を食す。赤だしをすする。すべてを食べ終わった後、完全なる空腹で倒れそうであった肉体が活性化された。徐々に固形燃料の火が消え、鍋の食材も尽きた頃、冬月は、遠くに見える太平洋の大海原と黒々した岩々を眺めた。 「さて、岩窟に参ろう。」 「ああ、そうだな。」 冬月は私を置いて、先に店を出ようとした。しかし、冬月は間違って、その店の厨房の入り口へと入ろうとしていた。私は冬月を引き止めて、出口に引っ張り出し、階段をつたって下に降りさせるのだった。冬月は、まだ料理の世界にも未練があるようだった。おみやげ屋を出て、鳥居をくぐる。しばらく、砂利道を進むと、お婆ちゃんとその孫が会話をしている。 「昔とだいぶかわってしまったでしょう。」 「ああ、だいぶ変わったね。」 道もきれいに舗装され、橋の欄干もきれいな真っ赤に塗り込められている。それでも、家族が神宮参りをするということは、変わっていないのだ。 先に進む冬月は、鵜戸神宮霊橋と呼ばれる断崖絶壁の前で待っていた。冬月は、身の潔白をはかるかのように、ゆっくりと、その橋に足をかけた。ゆっくりと、ゆっくりと、橋を渡っていく。 そして、その霊橋を渡り終えた後、「やっぱり渡れた」と喜ぶ冬月がいるのであった。 冬月は、石段を降り、展望台までやってきた。霊橋を下から眺めて、証拠の写真を携帯電話のカメラで写した。さらに、亀石も写した。冬月は、運玉を買い、亀石の縄の中に投げた。しかし、やせ細った冬月の身体では、亀石までとどかずに、運玉は岩にはじかれて、砕け散るのだった。冬月は、こんなもんだろう、と言って、岩窟の鳥居をくぐり、奥へと入っていった。あわてて、私もその後を続いた。岩窟の信仰は、岩戸の信仰と同じなのだろうか。冬月は、鵜戸神宮の厄除けのお守りを買い、他人から運がもらえるように、運玉の入った袋も買うのであった。自分には運がないので、他人に運を委ねて、その運をもらおうというわけである。 日向というものは、実は天孫降臨以前の神々たちが息づいている。天照大神より前の神々がいる。とくに、諸県地方と呼ばれた都城盆地以西の地域には、イザナギ・イザナミを中心とした神々の痕跡が多い。とくに、霧島の原生林の奥地には秘められた謎に満ちていた。天津神と国津神に分かれる以前に諾冉二神の世界があった。この高天の原はこの一帯であったろう。しかし、市町村合併により、その名も消えていった。このように、失われていく歴史の重さをかみしめながら、旅を続けるのだった。
フィクションです。
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海際の席に座っている冬月だが、冬月はどうも陸地の方のフェンスの向こうに生えている植物に興味があるみたいであった。タクシーはスピードに乗っているので、すぐに通り抜けていく。
「あそこに生えているのは、ダンチクじゃないか。小生、ウガヤフキアエズノミコトのウガヤは、このダンチクじゃないかと思うんだ。イネ科の植物で、秋にかけて、鵜の羽に似た花を咲かせる。海の人々が母屋をつくるときには、これを茅葺屋根に使ったんじゃないかな。文化の違いが、鵜の鳥の羽という表現に落ちつかせたにちがいない。茅はチガヤやススキなどのイネ科の植物の総称で、屋根を葺くのに使うね。イネ科の植物には、葦があって、豊葦原中国の代表的な植物となっている。葦をアシと読んでいたけど、ヨシと読むようになったのも、歴史の背景があるんだね。日向神話の前には、国譲りの神話があったからね。よく、葦の髄から天井を覗くというじゃないか。」 私は、ピンと来た。日向神話に抜け落ちていた点である。 「そういえば、大淀川の南側には、中村恵比寿があるよね。日向神話には、国津神の存在が忘れ去られているね。高天原神話と出雲神話も同列に語ることができなければ、日本の神話は、民主主義的にはならないなぁ。皇民化政策の抜け落ちていた視点であるね。」 「しかし、日向においても、高天原系の神社は少ないね。どちらかといえば、国津神の神社のほうが多いよ。なぜならば、国譲りの神話を大切にしてきていたからだ。でも、だんだんと武力で制圧するように、歴史が変わってきたんだ。日向の一ノ宮は、大国主を祭る都農神社だからね。神武天皇が大和に行くまでは、その約束を誠実に守っていたと思うんだ。だから、都農神社を造っている。」 「神話の世界も、現代社会に似て随分複雑なんだね。次の目的地、鵜戸神宮は、豊玉姫が、ウガヤフキアエズを生んだところなんだろう。鵜戸の岩窟の中に、産屋を造ったのかな。」 やがて、二人を乗せたタクシーは、鵜戸神宮の赤い鳥居を潜り抜けた。タクシーが駐車場に止まる。冬月と私は、車を降りると、露店の脇の階段を上り始めた。サザエの焼ける匂いが香ばしい。鵜戸神宮は、一昔風にいうと、官幣大社という称号がついていたらしい。国家神道の名残であろう。しかし、敗戦後、帝国の斜陽と重なり、さびれた小さな店と共に、哀愁を漂わせていた。田舎の個人商店がシャッターを下ろしていることも思い浮かぶのだった。帝国の残影の上に、希望の一字を乗せることができるのだろうか。倒れ臥した帝国の上に築かれた、民主主義国・日本の姿は健康とはいえない。 冬月が小腹が空いたといったので、目に入ったおみやげ屋の二階にある食堂へ入ることにした。目に止まった張り紙に、地鶏すきやきとあったので、それを二人は頼むことにした。かかっている音楽は、あの橘公園で耳にしたフランスの曲に似ていた。 「芸術の都・宮崎か。」 ふと、私は口に出していた。平和の塔がエッフェル塔で、大淀川がセーヌ川ということになる。パリの街にも、ブローニュの森とか、バンセンヌの森とか、さまざまな森がある。それと同じように、宮崎市内には、さまざまな森や公園がある。平和台公園のはにわ園、市民の森、一ッ葉のシーガイア、神宮の森、文化公園がある。南に目をやれば、木花の運動公園、青島のこどもの国がある。これだけの観光資源が、宮崎にある。自由・平等・博愛の国、フランスだ。 冬月に言わせれば、自由とは日本人にとって、菩薩になる道だという。餓鬼修羅畜生から抜けて、人間になって、自立自尊できたとき、菩薩の道が拓けるというのだ。それを自由と呼ぶ。昔の人々は、仏になれるのは一部の人間だけで、仏になるということは死ぬことだと思っていた。しかし、日本にやってきた大乗仏教は、みんなが仏になれるという教えだった。冬月は、仏になるということを、夢を叶えるというように解釈したのだ。夢を叶えられる人間になるために、それぞれの道で修行をしているのであるのだ。 しかし、冬月にしてみても、パリの人々が夢見た、平等で、博い愛に溢れた社会というものがまだつかめていなかった。人々は、社会は平等でないということを身に染みて感じている。菩薩の慈悲の心に達するほどの人間愛に到達できるほど、余裕がない。私も冬月も日向神話の物語から、平等と博愛が感じられないということに気がつくのだった。『古事記』の世界観に、不足しているものがあるのだ。古墳の造成のときなんか、帰りの弁当すらなくて、餓死するものもいたくらいだ。 やがて、くつくつと煮立った地鶏すき焼きが運ばれてきた。白菜などの野菜が盛り高く積まれていた。 「ひっくり返してから、お召し上がりください。」というので、それに従った。ご飯と赤だしにわさび漬けがあった。テーブルに目をやると、「鵜戸神宮霊橋」とかかれた小文が目についた。これによると、古来、人間社会から神の世界への架け橋として、反り橋は深く信仰の対象として敬われていたそうだ。神仏混淆の両部時代に遡るという。諸仏充満の聖地には、穢れある者は渡ることができないらしい。 フィクションです。
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