|
冬月が皿を洗っていると、広報部の川上部長が来て、事務所に呼び出された。部長は、冬月が真坂野社長のところに持っていった資料を、冬月に返した。
「社長は、狂歌を作られるそうだが、その資料は君がもう少しわかるようにまとめ給え。そして、中村 先生と共に、M観光ホテルへ行ってくれ。手配はすべて整えておく。」 次の日、冬月は私のところへやってきた。私は、冬月と共にM観光ホテルに向うことになった。M観光ホテルは、ノーベル文学賞作家・川端康成の所縁のあるところだ。私も、彼の『たまゆら』を読んでいたので、喜んでひきうけることにした。冬月は、いつもの着流しを着て、私はお気に入りの背広をひっかけていくのだった。 小林から高岡の村落をとおって宮崎にむかう道程というのは、背には、木の葉いろにのどかにばやけた霧島の峰を負っている、といったのは誰だったか。長塚節の歌に、 霧島は馬の蹄にたててゆく 埃のなかに遠ぞきにけり とあるのを思い出す。 やがて、宮崎市にやって来ると、大淀川の岸辺にあるM観光ホテルの中に入っていった。少しばかり、早く到着したので、ロビーのまわりを二人でうろついていた。さすがに、ブライダルの聖地であるがために、男どうしでは気まずい思いがしたが、二人は、薄暗い奥のチャット・ルームでくつろいでいた。少し小腹が空いたので、パンケーキショップでいくつか買い込んで食べていると、ケーキ屋のウェイトレスが コーヒーの注文を取りに来たので、二人はアメリカンを頼んだ。この雰囲気はデカダンに覆われていた。 太宰治らも、こんなふうに語り合ったのだろうか。 やがて、チェックインの時刻になったので、フロントに近づくと、ホテルの支配人がやって来て、部屋の鍵を渡し、部屋へと案内してくれた。部屋は、小ざっぱりとしていて、なかなか居心地がいい。二人はもちろん別々の部屋であった。私と冬月は、部屋に荷物を置くと、私は部屋を空け、冬月はベットで休むことになった。私は、三階のフロアを歩き回る。そこには、ガラス張りの日の照らす空間と一階から三階までの吹き抜けがあった。大正浪漫主義を思わせるようなソファーや家具類が多く見受けられる。ここが、『たまゆら』で、あの臭いセリフを吐いた場所であろうか。大淀川の川筋が目の前に広がっていた。まっ白な雲に覆われていたため、あの夕映えを見ることはできなかった。それに女と来ているわけではないので、セリフを用意する必要もなかった。そのとき、冬月はどうかというと、ぐったりとベットに横たわっているのである。新会社発足のために、必死に働いて、その疲れがどっと溢れて来たみたいだった。 だいたい、二時間ほど眠っただろうか。冬月は目覚めると、疲れをとるために、『たまゆらの湯』へ入ろうと思った。冬月は、着物姿のままで、いつものように、風呂場へと向う。キーを見せると、中へ入るように勧めてくれた。冬月は、着物を脱ぎ捨てて、湯舟へ進む。だが、必ず、まず身体を洗わなければならないのが、風呂場の掟である。そうして、やっと湯舟の中にゆったりと浸かれるのだ。 『たまゆらの湯』はやわらかい。冬月は露天風呂に浸かっている。空を見上げると、飛行機が飛んでおり、冬月の身体はゆらゆらと軽く浮かび上がった。そのたましいの抜けたような身体は、ずっと揺れつづけていた。ずっと、こうしていたいと願う冬月であった。 私が各階の置物や絵画を見学していると、ある政治家の応援会が開かれていた。なんだか、テレビで、ある党の執行部が退陣したらしいのだ。まあ、冬月のような哀れな人々を救ってほしいものだ。私はエスカレーターで一階まで下り、ホテルの外に出た。そして、大淀川河畔の橘公園を歩く。小説『たまゆら』では、水質汚濁の公害で見れない描写にあったが、今の河川は先の大雨で濁っていたものの、大淀川をセーヌ河と錯覚した。その昔、おそらくセーヌ河になぞらえようとして、やっと、その風情が完成しつつあるように思えた。周りには、フランスのまどろみの曲が流れている。そういえば、パンケーキショップもフランス風であり、今は過去、フランスの面影を映していた。私は、宮崎は芸術の都にふさわしいと思った。そして、芸術家でもある冬月霧山人の活躍を願った。やっぱり、フェニックスの木蔭はあるし、ストライプのテント、様々な春の草花が咲き誇っていた。 フィクションです。
|
小説・霧山幻想(リメイク中)
[ リスト | 詳細 ]
|
やがて、冬月は亜季との離婚を忘れるために、『五感を満たす』の通りに、芸術活動に没頭していった。五感の中で、もっとも味の世界が難しい。絵画の世界、音楽の世界、陶芸の世界、料理の世界、すべて共通のハーモニーを持っていた。そのハーモニーを見極める共通の人生というものこそ、芸術なのである。芸術には、人の生きる筋がなくてはならない。その筋道を貫くからこそ、幾多の困難に出会ってしまう。その困難に出会ったときに、どのように対処するか。そこに忍耐がある。この忍耐こそが、芸術家の世の中に訴えかける生き様であるし、手本であるのだ。いつしか、芸術は消滅し、軽佻浮薄なものになってしまった。芸術を失った人類は、その人生における生き方の術を失っていた。早熟な芸人が今日もまたすり減らされてゆく。冬月霧山人は、自分の鍛錬のために、料理に、芸術に熱を入れている。
冬月は、自分の家を春陽草庵と名づけ、その一室に冬月研究所を設けていた。この研究所には、冬月の助手兼ルポライターの古城啓介が住み込んでいて、自炊していた。冬月の大学時代からの友人である。彼は文学部で、冬月は理学部。二人は、大学の古武道部で知り合った仲だ。卒業後、霧山の地に帰ってきた冬月は、高千穂峰の北麓に掘っ立て小屋を建てて、さまざまな研究を行っていた。大学で納得できる研究ができないと思っていたからだ。冬月は、啓介とともに、政治・経済・科学・文学とその研究領域を広げていった。そして、高速レストランに入って、会社の困難にぶち当たって、研究活動は停止状態になって、実家に移ってきたのだった。そこに部屋をつくった冬月は、春陽草庵と名づけたことは、前に書いた。料理人の世界に入った冬月は、やがて冬月の専門分野と料理の世界が重なっている事に気づく。いや、それでなくても、中学の時、雑学の帝王といわれた冬月に興味の対象としての料理をはずすことはない。調理科学や栄養学、食品学など、健康医学を勉強していたのと重なっていた。冬月は、大学時代の後半で、遺伝子の研究、癌の勉強、生命の進化について、独学をしていた。そして、今、生命のスープたる料理にぶち当たったことによって、運命の扉を眼にした気がした。薬品では、健康な生命を維持し続けることはできない。健康の鍵は、食物にある。そう、開眼した冬月は、究極的に、不老不死の料理というものが可能なのではないかと幻想した。そのメフィストフェレスのような悪魔の試みは、亜季との離別がもたらす苦痛が生み出したものにちがいない。そのようなマッド・サイエンシティズムに陥りそうなところを、かの杉原夕子がその現実的な芸術センスでカバーしていた。夕子との精神的シンパシーは、とても深いものに感じられるのだった。仕事上の関係でぶつかったことも何度も会った。しかし、本来、その気質とセンスに惚れているようで、冬月が霧山人となり、料理人芸術家としてスタートし、その奥に不老不死の野望を秘めていたとしても、それ以上のことは進みようがなかった。心の奥に、亜季との思い出が塞がっていた。
フィクションです。
|
|
半年の間に、何もかもすっかり変わっていた。八月の総選挙、郵政民営化法案の可決、道路協団の株式会社化、そして、M交通の再生機構入り。さらに、もっとも、悲劇的なことが、冬月には襲い掛かってきていた。それは、長年別居していた妻・亜季との離婚であった。亜季は、悠塾の入っている旧窮々亭宅の管財人をしていて、窮々亭今旧の娘である。窮々亭は、一年前に亡くなっていて、それが冬月と亜季との距離を一層遠くしていた。決定的に離婚の原因になったのは、冬月が高速レストランの仕事に忙殺されるにしたがって、旧窮々亭宅における悠塾の運営が疎かになり、悠塾の塾生を亜季が追っ払ってしまったことである。亜季も看護婦の仕事をしていて、どうしても悠塾の運営どころではない。だから、仕方なく冬月に無断で悠塾を解散して、その土地を売却してしまったのだった。書物もろともは、冬月の春陽草庵に送りつけて、ついでに離婚届も送ったのだった。勝手に悠塾を解散したものだから、冬月も怒りに任せて、離婚届に判を押して、ついに離婚は成立してしまったのだった。
冬月は、胸の痛みと後悔の念に苛まれたが、時間は止まってはくれない。料理の世界、会社の経営の勉強、真坂野社長が残したスローガン『五感を満たす』の実践、冬月の仕事は、だんだんと増加するようになった。離婚した冬月は、心にぽっかりと風穴が開いたようで、その風穴に惹かれるように、様々な女たちが集まってきた。その中にも、冬月の心を癒してくれる女性、杉原夕子との出会いは、冬月の芸術センスを開花させることになった。彼女は絵心があり、装飾や生け花など、冬月のセンスと一致するところがある経理担当の娘だった。冬月は、いつの間にか、その女性と亜季の幻影を重ねるようになっていた。実際、よく見ると、その気質というものが似ている。冬月は、胸の痛みを抑えるために、彼女にはまっていった。亜季とは別居していたものの、やはり精神的には淋しいものであった。冬月は、結婚というものは、孤独でないということを証明する手段と考えていた。だから、肉体的に距離をとっていても、孤独でないと思えることこそ重要だったのだ。その杉原夕子との出会いは、不思議なものだった。どうやら、新会社の設立に重要な出会いのようなのだ。夕子は、冬月の味を好んでくれた。冬月の芸術センスを認めた。やがて、冬月は会社に認められ、アルバイトから契約社員に昇格した。さらに、料理の師・田山霧山人は、冬月の料理のセンスを見込んで、霧山人の称号を譲ると言い出した。冬月は、ためらって辞退したが、その襲名は宙に浮いたままとなっていた。
フィクションです。
|
|
真坂野社長は、自分の会社の再建のことを思った。これまでの経験則や考えでは理解できない時代が来ている。果たして、これから、このような時代において、会社を再建する道が浮んでくるのだろうか。ここまで会社の赤字を膨らませて、そこから復活する手段を生み出せるのだろうか。これからの教育について問い始めた。
「これからの若者は、文武両道のような心身ともに成熟するような教育が必要になるのでしょうか。」
冬月は、これまでの経験や知識のあり方から教育への指針を築き上げようとしていた。
「小生が学生のときは、かなりひどい「詰め込み」教育でした。最近までは、「ゆとり」教育というものが行われて、学校に行く子が少なくなりました。そして、ここにやってくるのです。「詰め込み」教育のときは、人間がコンピューターに負けてなるものかと言う具合に勉強が進められました。そして、我々はインプットされたコンピューター型人間となってしまいました。今の官僚や先生が人間らしくないのはこのためです。だから、小生は、学歴を捨てて、実社会において、詰め込まれた知識を実用化させることだけを考えて、フリーターとして職を転々として来ました。そして、工場や農作業、料理を経て、知識の実用化の方法を獲ることが出来ました。これは、科学の首根っこを押さえて、実学にしてしまうという目論見でもあります。まあ、わかりやすくいえば、実社会に必要な知識と必要でない知識を選別して教育して、その減らされた知識の分が「ゆとり」となるべきでした。この選別を当時の文部省がさぼったために、「ゆとり」ではなく、「だらけ」教育になってしまったのです。役に立つ知識とは何かを分けて教育する事が生きる力につながるのです。」
真坂野社長がふと脇に目をやると、そこに一冊の和綴じの本が落ちていた。そこには、ミミズの張ったような字があった。
「そこの本はなんと言う本かね。ほら、そこに落ちている…。」
冬月はふいに目をやると、
「ああ、それは四方 (よも )のあかという狂歌文集です。四方赤良が書いたものです。別名では寝惚先生とかが有名ですが…。」
「狂歌ですか、わしも狂歌でも読みたい気分ですよ。」
「なんとなく、わかる気がしますよ。世の中が煩雑すぎて、何もかも投げ出したくなりますなあ。ああ、そうです、これから真坂野社長は、狂歌士・四方屋 (よもや )真坂 (まさか )に生まれ変わっては。真坂野達人は姓名判断では宜しくない。四方屋真坂にし給え。」
かくて、狂歌士・四方や真坂が誕生したのであった。達人社長は、今からこつことと会社の現実を変えるという荒業を生み出す気が起きなかった。しかし、PRくらいならできるだろうと、宮崎を応援することに決めた。その謙虚なところが達人社長のよいところだろう。これならば、優秀な人材が集まって、必ずM交通を黒字に導いてくれるだろう。
冬月は、達人社長にいい案がないことを見越して、これからの時代にどのような人材が必要なのかを話し出した。
「まあ、冗談はさておき、まずは現実を調査してください。そして、無駄の削減、削減です。そして、身の程にまで収まったら、発展の余地を見つけるのです。人々の不便なところを探せば、仕事というものは見つかるものです。案外、便利な世の中では、仕事がないものです。人間は便利さを求めるものですが、仕事は不便なところに見つかるものですよ。だから、弱っているところほど、仕事が出てくるわけです。不便なところは、遠い奥地にあり、人々も疎らであります。だから、バスの場合、燃費がかかって、採算が取れなくなります。もし、燃費がかからないバスがあったら、どうします?」
「そんな夢みたいなバスがあるのか?こどもの国のおもちゃじゃあるまいし…。」
冬月はにやりと笑い、新時代の光を見せた。
「太陽光発電があるじゃないですか。国内初のソーラーバスを走らせるのです。そのうちに、県内に太陽光発電用のシリコンの工場なんかができると、安くで手に入れることができるようになる。五年くらいで、会社の経営を立て直して、利益がでるようになったら、投資するのです。現実としては、高齢化が進めば、自家用車に乗る人たちもあきらめて、バスやタクシーを使うでしょう。」
達人社長は、しかめっ面をして、答えた。
「ソーラーバスは夢として、取っておくとしても、高齢化社会においては、まだ望みがもてそうだな。」
「高齢化社会がなければ、とっくの昔に日本は繁栄に向かってますよ。年を取るたびに、日本懐古の伝統主義になって、封建時代に逆戻りだね。まあ、ある程度、余裕があるから、自分たちの生活を支える科学的経済システムの上で、伝統、伝統と叫ぶことができるだろうけど、今の科学的経済システムが崩れて、伝統的な暮らしをしようとしたら、半分の日本人は死ななければならない。そういうことにならないためには、伝統ということもその本質が演劇レベルに落とさねばならないようだね。」
失われた十年は、失われた伝統を再確認するための機会だった。しかし、古の伝統的生活を営むほどに、我々日本人は発展した社会を逆戻りさせるほど愚かではない。古の伝統的生活、それは貧乏そのものだということを再認識していた。結局、新しい時代を築くためには、その伝統的生活によって貧窮を耐えながら進まなければならないようだ。ここからしか未来は切り開けないようだ。
フィクションです。
|
|
旧窮々亭宅の居間には、冬月と真坂野社長が会話をしていた。その外では、塾生たちが畑仕事の片付けをしていた。
真坂野達人は、M交通の再建について冬月に尋ねた。冬月は答えて言った。
「M交通は、人々のニーズを見失ってしまいました。個人が一台乗用車を持つようになると、大量輸送の時代が終わってしまいました。これからは、自動車を持たない人々をターゲットにしなければなりません。それは、学生や高齢者であります。教育や医療・福祉に関わる施設に停留所を置くことです。これにはマーケティングが必要ですが、行政との連携で様子がわかるでしょう。まあ、我々が直面する現実には、再び大きな第三の波が押し寄せて来てもいました。これは人類にとっても重大な出来事で、人間の価値観の大幅な再逆転を生んだのでした。それが情報化の波であります。これは戦前の言葉でいうと、観念化の波であります。第二次世界大戦で、観念と唯物との戦いが終わり、唯物が勝利しました。その結果が、高度経済成長でありました。しかし、コンピューターの登場によって、また、公害や環境問題などによって、唯物の世界観は限界を迎えはじめたのでした。そこで、再び、情報化という観念の世界が辺りを覆い始めたのでした。」
真坂野社長は、また難解な変な方向に話が転がって行くのを気にしながらも、合いの手を入れた。
「インターネットの普及であろう。」
「まあ、そういうことです。実は、このネット社会の形成によって、人類は引き篭もりという現象を生み出していました。部屋にいながら、情報を得ることができて、欲しい商品を入手できるようになったのです。支払いも信販会社から落とせるようになっています。やはり、便利で楽な社会に進んでいるようです。しかしです、人間社会においては、従来の仕組みも維持されなければ、このネット社会は成立しないということをわすれてはならないのです。だから、この悠塾では農業を糧に現実感覚を鍛えているのです。考えがしっかりしていないうちに、インターネットを与えるのは危険なのです。」
「なんだか、小さいときに、頭が固まらんうちに新聞など読んじゃいかんと言われたような気もするが、それと同じか。ネットでの商品の売買は、わしは余り信用できんのだが、やはり実物を自分の目で確かめて買った方が自分の好みの品を買えるような気がするからなあ。まあ、人の自由に口は挟みたくはないのだが…。」
冬月はうなずきながら、確固たる口調でこう答えた。
「そのとおりではあります。インターネットの取引では、品物の情報量が少な過ぎるのです。手軽さと安さで取引するのですから、別に品質にはこだわらないのでしょうが…。店頭での売買の場合は、様々な多くの情報量が得られて、店員とのかけひきがあるなど、面倒な割には満足度が高まります。テレビ・ショッピングなどでは、その商品を取り寄せる事が目的となって、商品は倉にしまいこまれるだけになりがちであります。これこそ、商売人の思う壺であります。まあ、現代人は、周りに多くの情報が氾濫しているため、その乱雑さを避けて、頭の中には少ない情報しか仕入れたくないという欲求が出てきました。小生はその乱雑した情報をそのまま取り込み、如何に整理するかに、二十年ばかり費やしてきました。そこで、だいたいのまとまりがつきましたので、研究所と山人会、そして悠塾によって情報編集と伝達を主に活動を始めました。」
「それでは、あの若者たちには、ここで生み出された新しい教育のあり方を試しているというわけかね。」
「新しいというか、どちらかと言えば、ふるいのかなあ。でも、21世紀における伝統的な教育の方向性は掴んでいると思います。例えば、二宮金次郎の教訓がある。彼は薪を背負いながら勉学に励みました。これを現在に当てはめると、薪を背負う部分が肉体労働になり、勉学に励むことが知的労働になります。つまり、我々は仕事において、農業や工業などの肉体労働に従事しながら、一方、副業として執筆などの知的労働に従事しなければならなくなったのです。これは少子高齢化の進展により一層要求されることでありましょう。これを現実の社会に当てはめますと、肉体労働は、ネットで売買される商品や作物を作ったり、商品を運搬したりするために必要であり、知的労働はインターネットを活用したり、パソコンのワープロや表計算を使いこなしたりする事にあたります。肉体が疲れたら、頭脳で稼ぎ、頭脳が疲れたら、肉体で稼ぐ、そして共に疲れたら眠ればよいのです。」
悠塾の若者たちは、帰り間際に、お疲れ様でしたと口々に叫んで帰っていく中、冬月と真坂野社長の会話は続くのであった。
「21世紀とは、肉体と頭脳が共立する社会になるのかね。」
「いや、それだけじゃありませんよ。数字と言論が両立しなければなりません。どちらか一方が優先してはいけません。これはとても重要な事です。しかし、まだ、決めかねていることです。いま、鉄道会社やバス会社が衰弱して、これまでの交通事情が一変してきました。バスや鉄道は第一次交通手段から第二次交通手段に移ったのです。人・モノを運ぶ交通手段が主であった時代は過ぎ、乗用車の主流化により、大量輸送の時代は終わった。しかも、現在、ネットという精神を運ぶ交通手段ができてしまった。この交通手段は精神の欲する情報を発信・獲得することで、人・モノを動かし入手することのできる重要な経路となりつつあります。この精神の交通手段は、人間の本体、肉体が移動しなくても、心身の欲求を満たすように働く。そのため、このネットワークはすでに第一次交通手段となり、鉄道、バス等の交通手段は、ネット社会を維持するための第二次交通手段に成り下がってしまいました。くりかえしになりましたが、しかし、悲観することはありません。たとえ、これらが第二次交通手段になったとしましても、人間社会の本質を支えるのは、やはり、人・モノを運ぶ手段であることは変わりがありません。それは、立場が変化しただけであり、仕事は以前と全く変わらない。ただ、人々のニーズが変わってしまった。たとえば、観光は、人々がネット社会の個室に飽きてしまったときの脱出と言う風になる。今までのような労働からの解放ではなく、観念の世界からの離脱ということになる。コンピューターの登場で、人類社会は観念の生きる社会となった。第二次世界大戦で観念よりも唯物の方が優れている事が証明されたが、しかし、70年以降逆転し、唯物の限界が出現し、再び観念の世界に移ってきた。コンピューターによるネットワークは、それまでの唯物的な人・モノの社会に被膜を覆ったのです。この被膜は、人・モノの交通手段を使って、精神(観念)を思うだけで、人・モノを手に入れることができるようにはなった。問題も多いですが。だから、唯物的な人間関係を避けて、物理的接触を避けて、個室に閉じこもるのだ。この個室に閉じこもる事が、個人主義の正体なのかもしれない。21世紀は、唯物・観念の両世界があることを熟知し、両世界を往き来する事が求められる。観念世界に溺れる人々は、唯物世界を覚え、唯物世界に溺れる人々は、観念世界を知るべし。これが悠塾の指針でもあります。」
フィクションです。
|


