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微生畝 孔子に謂つて曰く、
「丘何ぞ是の栖栖たる者を為すか。乃ち佞(ねい)を為すなからんか。」
孔子曰く、「敢へて佞(ねい)をなすに非ざるなり。固を疾(にく)むなり。」
(『論語』 憲問第十四 より )
微生畝は孔子が諸国の君を説いて回って道を行おうとするのを見て、これに言って言うには、「丘(孔子の名)よ。おまえはどうして諸国の君に未練を残しているのか。うまいことを言って人を悦ばせて世に用いられようとするのではないか。」
孔子「決してうまいことを言って人を悦ばせて世に用いられようとするのではありません。一道に凝り固まって融通のきかないのを悪(にく)むのです。」
栖栖・・・恋い慕って捨てないこと。
孔子が世を憂うる心をあらわしたのである。
微生畝は魯の人で、姓を微生、名を畝(ほ)という。
孔子の名を呼び捨てにして辞(ことば)も甚だおごっているから、年老い徳高くて隠遁している者であろう。
孔子が年齢徳行の長じた人に対して礼は恭しくて言の直いことはこのようである。微生畝を警めることが深い。(朱子)
孔子は道が行われていないときは、諌める。でも、隠者は道が行われていないときは隠れている。固執は執着であるから、仁愛ではないからだ。何に執着しているかといえば、富や地位である。執着を捨てなければ、真実の愛は得られない。諸国の君を諭して、仁政を行わせようとしていたのだろう。
霧山人
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悠塾の心得2
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『論語』がフランスで翻訳されて、啓蒙思想を生んだ。
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子路石門に宿す。晨門曰く、「奚れ自りする。」
子路曰く、「孔氏自りす。」
曰く、「是れ其の不可なるを知りて之を為す者か。」
(『論語』 憲問第十四 より )
子路が孔子に従って天下を廻り歩いた時に、偶然、石門という処に宿った。
その地の門番が「どこから来られたか」と問うた。
子路は「孔氏から参りました」と答えた。
門番はこれを聞いて誹って言うには、「孔氏とは道の行われないのを知りながら方々歩き廻って道を行おうとする男か。あなたもそのお供をして御苦労なことだ。」
隠者が孔子を評して言ったことである。
孔子の生きた時代も現代のように気候が悪化した時代であった。もしこの道を大道(天地陰陽の理)だと解釈して、周公の道としなければ、晩年に『易経』にこだわった理由もわかる。気候をよくする方法を探してもいたのだろう。そして、そのことについて、諸王に力を貸してもらおうとしたのかもしれない。子路も志士のように思えるけれど、信心が深かったので勇気があった。子路は、シャーマン(巫)の能力があったのではないかと思う。
霧山人
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子曰く、「我に陳蔡に従ふ者は皆 門に及ばず。」
徳行には顔淵・閔子鶱 冉伯牛・仲弓。言語には宰我・子貢。
政事には冉有・季路。文学には子游・子夏。
(『論語』 先進第十一 より )
晩年の孔子は言った。「わしに陳蔡の間に従って患難を共にした弟子たちは皆周公の道を達成することはできなかった。」
当時陳蔡に従った人々の中には徳行に長じた者には顔淵と閔子鶱と冉伯牛と仲弓とがあった。言語に長じた者には宰我と子貢とがあった。政事に長じた者には冉有と季路とがあった。文学に長じた者には子游と子夏とがあった。
徳行・・・道を覚り得て行為にあらわれること。
言語・・・言葉使いの巧みなこと。
政事・・・国家を治めることに達していること。
文学・・・詩・書・礼・楽等を学んで善くその意を言うこと。
後世、徳行・言語・政事・文学を孔門の四科といい、顔淵・閔子鶱・冉伯牛・仲弓・宰我・子貢・冉有・季路・子游・子夏を孔子の十哲というが、程子は、「四科は孔子に陳蔡に従った者だけであり、門人中の賢者は固(まこと)にこの十人に止まるのではない。曾子のごときは孔子の道を伝えたけれども、この中に入っていないから、十哲というのは世俗の論であることがわかる」と言っている。
晩年の孔子は、周公の夢を見なくなったが、それはその志に燃えていた陳蔡の弟子たちがみんなその志を達成することができなかったからだろう。ここには、子路が入っていないから、子路は勇のみで知が足りなかったことがわかる。
まあ、孔子は周公の志を達することができなかったが、しかし彼らの生き様は後世に多大な影響を与え続けたのだった。彼らはみんな死してしまったが、彼らの志は、滅びなかったのだ。曾子が孔子の道を伝えることができたのは、曾子が晩成であり、親孝行によってその身を傷つけないようにしてきたからであろう。曾子が実行できたことは、身を修め、家をととのえることまでであったのだろう。
霧山人
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子華、斉に使ひす。
冉子、其の母の為に粟を請ふ。
子曰く、「之に釜(ふ)を与えよ。」
益を請ふ。
曰く、「之に庾(ゆ)を与へよ。」 冉子之に粟五秉を与ふ。
子曰く、「赤の斉に適(ゆ)くや、肥馬に乗り、軽裘を衣たり。吾之を聞く、『君子は急を周(すく)ひて富を継がず』と。
原思、之が宰となる。
之に粟九百を与ふ。辞す。
子曰く、「毋れ、以て爾が隣里郷党に与へんか。」
(『論語』 雍也第六 より )
孔子の弟子の子華が、孔子のために斉の国へ使いに行った。相弟子の冉子が、子華の母のために、孔子に粟を請うた。もし子華の留守中に母の生活を支えることができないならば、冉子が請わなくても孔子はこれに粟を与えたであろうけれども、子華の家は富んでいるから与える必要はなかったのである。孔子は直ちにこれをことわりもしないで、「釜(八斗四升)を与えよ」と言われた。冉子はあまり少なすぎるので、今少し益すことを請うた。孔子は「庾(一石六斗)を与えよ」と言われた。冉子はまだ少なすぎることを患えて、己の考えで粟五秉(八十石)を与えた。孔子が言われるには、「赤(子華の名)が斉へ行った時には、肥えた馬に乗り、高価な軽い皮衣を着ていた。赤の家は富んでいるのである。わしの聞くところによれば、『有徳の人は緊急を要する貧窮の人には不足を補ってやるが、富んでいる人には更にその上に増して加えてはやらぬものだ』ということである。」といって、冉子が粟を与えるのは富める上に更に増し加えるので、君子の財を用いる道ではないことを諭した。
原思(名を憲という)が孔子の宰(代官)となった時、孔子はこれに俸給として粟九百を与えた。粟九百は当時の代官の俸給であるから、これを受け取るのは当然であるのに、原思は辞退した。孔子が言われるには、「辞退するな。これは汝の当然もらい受けるべき報酬である。もしいらないのであっても、(家に用いて余りがあるならば、)汝の隣里郷党の貧しい者たちに与えればよいではないか。」
孔子が財を用いるのに義に従ったことを示したのである。このときの義とは、貧者の救済である。貧しい者には、お金ではなく、食い物を分け与えるのである。
子華は孔子の弟子の公西(姓)赤(名)の字(あざな)である。冉子は冉有である。原思は孔子の弟子で、名を憲という。貧しい生活をして道を楽しんだ人である。
隣里郷党はわが住む処の近辺だから、互いに相救う義務があるのである。
なぜ、子貢のことを調べているときに、この章が出てくるかと言えば、子貢と顔回とは、どちらがすぐれているかということを考えねばならないからである。
この章の義がわかれば、顔回がすぐれていることがわかる。個人的にすぐれているということと社会的にすぐれているということは異なることである。つまり、子貢は個人的にはすぐれているけれども、社会的に人を救うことはできないが、顔回は人を救うのを目的にしていたので、社会的にすぐれていたのである。
この章には、子貢も顔回も出てこないが、それがわかるのである。子貢は、子華や冉子に近く、顔回は原憲に近いだろう。つまり、原憲の生き方は、顔回と同じように、貧に甘んじて道を求めるものであり、(貧者と同じ立場になって、そのような人々を救いたいということから始まる。顔回は少ない食事で、多くの人々を救おうとしたが、若くして死んでしまった。この悲劇。)原憲はすぐれているのである。しかし、原憲に足りないのは人を救うという発想が足らなかったことである。孔子は、原憲が顔回のように道を求めて、さらに恥のことを知っていたから、俸禄を断ったが、顔回の死後のことであろうから、あえて原憲に俸禄を取るように勧めて、さらに隣里郷党の貧しい者たちにまで恩恵を与えようとしたのである。孔子のすぐれているところは、こういうところである。現在の人々は、冉子のように、善行(経済効果)を理由にして、富者をさらに富ませようというような発想でしかないのであろう。嘆かわしいことだ。
子供手当てや生活保護とか高度な社会福祉は、有徳のすることであろうか。
霧山人
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子曰く、富と貴とは是 人の欲する所なり。
其の道を以てせずして之を得れば処(を)らざるなり。
貧と賤とは是 人の悪(にく)む所なり。
其の道を以てせずして之を得れば去らざるなり。
君子 仁を去らば悪(いづく)にか名を成さん。
君子は終食の間も 仁に違ふことなし。
造次にも必ず是に於てし、顚沛(てんぱい)にも必ず是に於てす。
(『論語』 里仁第四 より )
富貴は人の欲するものであるが、富貴を得られるような善い事をしないでこれを得るならば、恥じて富貴の地位にいない。
貧賤は人の嫌うものであるが、貧賤を得るような悪いことをしないでこれを得るならば、貧賤の境遇に安んじて去らない。
君子が君子といわれるのは本心の仁の徳を失わないからである。
もし不義の富貴を貪り、自ら招かぬ貧賤を厭うようならば、すでに仁を失ってしまうから、どうして君子と名づけられよう。
君子は御飯を食べるくらいの僅かの間でも仁に違うことはない。急がしく事のさしせまって心の落付かぬ時でも、艱難に遭って流浪して身の安全でない時でも仁を忘れることはない。
君子が常に仁を離れないことを述べたのである。
不義なことをして富貴を得るのは「その道をもってせずしてこれを得る」のである。
奢侈怠惰のようなのは貧賤を招く道である。
不慮の災難などに遭って貧賤になるのは「その道をもってせずしてこれを得る」のである。
徳川吉宗は、「全徳 得難し。一失すれば一得す。」と言ったとか。
吉宗公ですら、全徳(仁)を得ることが難しいのに、我々がそれを得ることができようか。しかし、一回失敗すれば、一回得ることがあるということはうなずける。
転んでもただでは起きない。七転び八起きというやつだろう。
君子の心や仁を得ようと頑張る。それでも、そこになかなか到達できない。それは如何にも人間らしいではないか。だけども、そういう理想を追い求めることは、世の中や自分の生活を改善する方法を見つけ出す心の動機であるにちがいない。まず、そういう心の働きが最初になければ、世の中は私利私欲や学歴や資格や高給を取る事だけに一生懸命になって、本当に必要だけども、利益のなかなかでない事業を誰もしようとしなくなる。そういう現実になっている。君子の心や仁を得ようという志があって、初めて世の中をよくしようという気概が生れてくるのではないだろうか。
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