平成17年4月6日から平成23年9月6日までのブログ

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悠塾の心得2

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『論語』孔子が周公の夢を見なくなった…。隠者編



人の道は踏み外してから、正しかったのだとわかる。


『論語』がフランスで翻訳されて、啓蒙思想を生んだ。

自分のして欲しくないことを他人にしないようにしよう。


ここでは、老子の大道や孔子の天命ということが学べる。

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富にして求むべくば。

 子曰く、富にして求むべくば、執鞭の士と雖も吾亦之を為さん。
 
如し求むべからずば、吾が好む所に従はん。
 
(『論語』 述而第七 より )
 
 人として富を欲しない者はない。富が人力をもって求めることができるものならば、わしも王公の出入りに鞭を執って、人を避けさせるような賤しい役の人にでもなんでもなって、富を求めようが、もし富を得るのは天命によるので、人力でどうともできることではないならば、吾が好むところの道に安んじているばかりである。
 
 富を求める者のために発したのである。
 
 上の三句は仮説で、下の二句が真意のある所である。
 
 人間が富を得るか得ないかは天命の知るところであり、無駄な努力である場合が多い。それならば、一層のこと好きなことをして生きたほうがましというのである。
 
 宝くじを買うか、パチンコに行くかしかない。負けるだろうけれども、あとは金持ちに媚びて酷使されるしかないだろう。お金を儲けて、快楽を得るために、苦しむことは馬鹿げた話ではないか。質実剛健・質素倹約で、お金を貯めることが現実的ではないか。

怨みに報いば如何。

 或人曰く、「徳を以て怨みに報いば如何。」
 
子曰く、「何を以てか徳に報いん。直を以て怨みに報い、徳を以て徳に報ゆ。」
 
(『論語』 憲問第十四 より )
 
 ある人が問うて言うには、「もし他人が自分に怨むべきことをした時に自分は却って恩徳をもってこれに報いたならばどうでございましょう。」
 孔子「報いは互いに平等でなければなりません。怨みのある者に恩徳を報いるならば、恩徳のある者に何を報いますか。公平無私をもって怨みに報い、恩徳をもって恩徳に報ゆべきものであります。」
 
 恩怨に対する態度を示したものである。
 
 「怨みに報ゆるに徳を以てす」という言葉が、老子にある。孔子は「直を以て怨みに報いる」という。老子の場合、怨みに対する徳という行為は、本物の聖人君子である以外にあり得ない。ここに、孔子のリアリズムがある。羅大経という人は仏教と比較して「徳を以て怨みに報いるのは慈悲広大で高く人に抜け出た行いではあるが、孔子が取らないのは世間に通用しない(仏や聖人君子になることは容易なことではないから)と思うからである。わが儒の道は必ず通用すべきことを欲する。故に『中庸』とか『人情に近い』とか言うのである。」といっている。
 「何を以てか徳に報いん。」ということは、仏教の因果応報とか、神道の明鏡止水に通ずる。「徳を以て徳に報ゆ。」ということに繋がるからだ。一番大事なことは、「直を以て怨みに報い」という言葉である。直ということは、正直かも知れないが、愛憎取捨の公平無私と解釈されている。現実問題として、非常に難しいことである。理想としては、怨みには愛でということがあるけれども、現実の愛は達成できないという恐れから、祈りと懺悔が必要となる。怨みに対して信じることと許すことが必要だが、その怨みを消すということはできるのだろうか。それと同じで、怨みに徳でということも理想でもあるが、これは高度経済成長で達成されたかに見えた。しかし、疑えばきりがないのだが、現状は今のようになっている有様であった。つまり、愛も徳も一事しのぎにしかならなかった。 孔子は、怨みには直であるという。どうなるかわからないが正直によって、怨みに報いれば、復讐されるかもしれない。殺されるかもしれない。これは、GHQに占領されたとき、昭和天皇が、自分はどうなっても構わないといった姿勢そのものだといえる。それはキリストの愛に近いではないか。結局、怨みに対しては、裸になってみなければわからないところがある。腹の中に一物を隠していないことを証明しなければ、受け入れてもらえないだろう。怨みには、ありのままの姿をさらすしか仕方がない。おそらく、怨みという人間の持つ一番醜い感情に対しては、美しい愛や徳は通用しないであろうという徹底したリアリズムが孔子には流れている。苦しみに耐えるしかないのであろう。

怨み多し。

 子曰く、利に放りて行へば怨み多し。
 
(『論語』 里仁第四 より )
 
 もし何事も利によって行えば人を害するから、人から怨みを受けることが多い。
 
 放る・・・依る
 
 人の利によることを戒めたのである。
 
 己の利益ばかり考えて他人の利益を尊重しないで怨みを受ける人は世間にいくらもある。
 
 利とは怨みを伴うものであるので、義を大事にすべきである。
 
 怨みを伴わないことが、義である。義はましてや恩恵を与える。
 
 益とは、上を損して下を得させることである。損は、下を損させて上を得させることである。これは『易経』に出ている。
 
 つまり、貨幣経済においては、上を損させて下を得させれば、結果として税金が上に入ることなので、益があるということになる。上を得させれば、下が損をすれば、下は税金を払えなくなるので、結果として上が困ることになるのである。また、利というものがお金つまり貨幣そのものであるというわけではなく、貨幣の使い方によって利という怨みにもなり、義という恩恵になるということを忘れてはならない。だから、金は天下の廻り物といい、宵越しの銭は持たないということが正しい。お金は、その使い道によって、利にも、義にもなり得るのである。お金の使い道にその人の人格が滲み出てくるのである。

怨みに遠ざかる。

 子曰く、躬自ら厚うして薄く人を責むれば、則ち怨みに遠ざかる。
 
(『論語』 衛霊公第十五 より )
 
 もし自ら己の身を責めることを厚くして人を非難することを薄くすれば、己の身はますます修まり人は従い易いから、人から怨まれることなく、自然に怨みに遠ざかるものである。
 
 怨みに遠ざかる道を述べたのである。
 
 人はとかく己を責めることは寛大で他人を責めることは厳重だから怨みが生ずるのである。
 
 人の振りみて、我が振り、直せ。
 
 自分は戦争しているのに、他人が戦争をしかけることは許せない。
 
 小国は大国の真似をしたがるものだ。
 楚の狂接輿歌うて孔子を過ぎて曰く
 
「鳳や鳳や、何ぞ徳の衰へたる。往く者は諫むべからず。来る者は猶追ふべ
 
し。已みなん已みなん。今の政に従ふ者は殆し。」
 
 孔子下り之と言はんと欲す。趨つて之を辟け、之と言ふを得ず。
 
(『論語』 微子第十八 より )
 
 孔子が楚に行こうとした時、楚にいつわって狂人となっている接輿(せつよ)という者があって、歌って孔子の車前を過ぎた。その歌は次のようなものである。「鳳や鳳や、道あれば現われ道なければ隠れてこそその徳は盛んであるのに、今のような道なき世になお隠れずにいるとは、何と徳の衰えたことであろう。過去の事は諫めて止めることはできないが、将来の事はなお追い付くことができる。今は隠れるべき時である。止めよ、止めよ。今のような無道な世に政治に従う者は危ういことだ。」 鳳をもって孔子に比し、孔子がこのような無道の世から隠れることを欲したのである。孔子はこれを聞いて車を下って接輿と話そうと思ったが、接輿は疾走して孔子を避けたので、孔子は接輿と話すことができなかった。
 
 隠者が孔子の隠れることを諷したのである。
 
 世の乱れている時期に、徳を説いたところで、その徳は名と実行が合致しないので、かえって徳を失ってしまうことが多い。そこで、徳が盛んなときにだけ徳を唱え、徳が衰えたときには徳を唱えないほうが、かえって徳の意義を保ちやすい。このときの孔子は依然と周公の志(三綱五常)を果そうとしているにちがいなく、晩年に達した境地とは違ったものであろう。朱子は、この隠者が保身のために世を避けているだけだといい、孔子は世を救おうとしているとして、その趣を孔子が正しいとしているが、晩年の孔子の弟子達の境遇を見ると、この隠者の言ったことが次第に正しかったのだということがわかろう。その点で、朱子の解釈は間違いだと言う事がわかる。
 
吾輩はこの隠者の立場を貫きたい。
 
 
 

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