平成17年4月6日から平成23年9月6日までのブログ

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悠塾の心得2

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『論語』孔子が周公の夢を見なくなった…。隠者編



人の道は踏み外してから、正しかったのだとわかる。


『論語』がフランスで翻訳されて、啓蒙思想を生んだ。

自分のして欲しくないことを他人にしないようにしよう。


ここでは、老子の大道や孔子の天命ということが学べる。

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 子曰く、文は吾猶人の如くなること莫からんや。

君子を躬行するは則ち吾未だ之を得ること有らず。

(『論語』 述而第七 より )

 孔子は言った。文章はわしも人並みにできないことはなかろうが、みずから君子と言うべき人の行いを

することは、わしはまだ十分にできない。

 
 孔子が謙遜の語をもって人に行いを尚ぶべきことを示したのである。孔子は実際は君子の行いをしているけれども、口ではそんな行いをすることはできていないというのである。今の世は、宣伝だけが過多であり、内実が伴っていなくても騙すことは可能である。そういう世の中では、内実がともなっていても、宣伝が不十分であるならば、それは本物として通用しないようになってしまった。だから、孔子の言葉は世間から見れば、うまくいかない方法を言っているようにも思える。しかし、本当は内実がともなっていなければ、宣伝の虚実が暴かれてしまい、長期的に見れば失敗になってしまうのだ。だから、今の日本は目先の利益ばかりを追うものだから、その利益は長続きせず、そのうち利益は去ってしまい、長期的に見れば不況のほうが長くなってしまったようである。明治の賢人たちは、百年後の繁栄を計画していたので、昭和のバブル景気ができあがった。しかし、それは食い尽くされて今のミニバブル不況ばかりの世となったのだろう。

 昔は、才能のある人物が謙遜の意を示していたら、周りの人物がそれを取り上げて奉ることがあったけ

れども、今のご時勢では、自分から意見をはっきりと申さなければ、無視されて、取り入れられることは

ないようになってしまった。こういうことが、言うべきでない人物と言うべき人物の違いであって、それ

を見極められるようになるには多くの人物に会って然るべきである。


 謝良佐の説によれば、文は聖人でも他人と同様でないから謙遜しないのであるが、能く君子を躬行すれば聖人の域に入ることができるから謙遜したのである。憲問篇に「君子の道なる者三、我これを能くすることなし」と言うのに似ているのである。

知者は人を失はず

 子曰く、与に言ふべくして之と言はざれば、人を失ふ。与に言ふべからずして之と言へば、言を失ふ。

 知者は人を失はず、亦言を失はず。

(『論語』 衛霊公第十五 より )

 孔子は言った。言語は相手によって発すべきものである。人がもし心を謙虚にして能く受け、聞いて能

く悟るならば、これはそのときに言うべき人である。しかるにそのときに言わなければ、そのときに言う

べき人を言うべきではない人にしてしまって、人間関係を失う。人がもし心を謙虚にして受け入れず、聞

いても悟らないならば、これはそのときに言うべきではない人である。そのときに言うべきではない人で

あるのにそのときに言えば、有用の言を無用の所に使って、言葉を失う。知者は人間関係を失うこともな

く、また言葉を失うこともない。


 語ることと黙することとが見当を外れないようにすることの難しいことを述べたのである。

 人間関係を失うのも、言葉の信用を失うのも、その病源は不知(人を知らないこと)である。


多くの人間とつきあったり話したりすることは、この不知から免れることである。

上を語ぐべからず。

 子曰く、中人以上には以て上を語ぐべし。中人以下には以て上を語ぐべからず。

(『論語』 雍也第六 より )

 孔子が言った。天分や学力が中等の人以上の者には上等の高尚な道理を教えてもよいが、天分や学力が

中等の人以下の者には上等の高尚な道理を教えないほうがよい。


 人を教えるには相手の天分を見て加減しなければならないことを述べたのである。

 
 中人以下の者に高尚な道理を話しても、これを理解させることができないばかりでなく、又みだりに高

尚なことを求めて己の身に適切でないことに意を用いるような弊害に陥って、結局は中人以下に終るもの

である。故に、その力の及ぶ所について教えるのは、自ら研究して次第に高尚な処へ進ませるようにする

ためであろう。

悱せずんば発せず。

 子曰く、憤せずんば啓せず。悱せずんば発せず。

 一隅を挙ぐるに、三隅を以て反せずんば、則ち復びせず。

(『論語』 述而第七 より )

 孔子が言った。人が教えるには、教えを受ける人に教えを受けるだけの素地が出来たのを見て、教えを

施すべきものである。もしある事を研究して、これを知ろうとして求めてもまだよくわからないで悩んで

いるのを見なければ、その意味を解してわかるようにしてはいけない。もし口に出して表現しようとし

て、言い表すことができないでいるのを見なければ、十分に言い表すことができるようにしてはいけな

い。物の道理は類推することのできるものである。ちょうど四隅のある物ならば一隅を挙げて示せば他の

三隅を知ることのできるようなものである。もし一隅の道理を示しても自ら三隅の道理を考えて語ること

ができないような者なら、まだ教えを受ける素地がないので、告げても効果がないから、再び告げること

はしない。

 学者の自ら勉学して教えを受ける素地をつくることを欲したのである。

 程子によれば、「憤と悱とは誠意が言辞にあらわれたのである。その誠の至るのを待って後にこれを告げるのである。既にこれに告げれば、必ずその自得するのを待ってまた告げるのである。」


 学ぶ者の自主性を育てることが重要であり、その自主性が育ったことを見極めた上で、教育をするべき

であると述べたものである。

知ることなし。

 子曰く、吾知ることあらんや。知ることなし。鄙夫あり我に問ふ。

 空空如たるも、我其の両端を叩いて竭くす。

(『論語』 子罕第九 より )

 孔子が言った。世間ではわしが何でも知っているようにいうが、本当にわしは知っていようか。

知ってはいないのである。ただし凡庸な人がやってきて、わしに物事の道理を尋ね、その人が愚かで何も

しらないのだとしても、わしはその人をないがしろにせず、その道理を親切に全部挙げて、一つも隠すこ

とはないのである。世の中人は、これを見て、何でも知っていると思うのであろう。

 
 孔子が自分の知識のなさを謙遜していったのである。

 程子の説によると、聖人が人を教えるには、このように俯してこれについても、なお衆人が聖人の道を高遠だといって親しまないことを恐れるのである。聖人の道は必ず降して自ら卑しくする。このようにしなければ、人が親しまないのである。賢人の言は引いて自ら高くする。このようにしなければ道が尊くならないのである。孔子と孟子とを観ればわかる。


 たとえ、たくさんの物事を知っていて、博学であったとしても、社会においては、物事をたくさん知っ

ていて、複雑な高遠なことは実行され難い愚かなことなので、それを考慮すると、何も知らないようにし

ていたほうがよいということである。知らないように口で言っていても、身体でそれを実行していれば、

その知識は本物であるということだ。世間で働く人々は、賢人ばかりではないので、いくら複雑で善いよ

うに見える知識であっても、世間一般に行なわれるには難しいことばかりである。賢人だけで実行できる

ような知識はあってもなくても同じことである。そういうことは、争いのもとなので、できるだけ、公に

しないほうがよいのである。人々にわかりにくい知識は、あっても人をあざむく嘘のようなものなのであ

る。


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