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『道徳経』八十一章を写し終えた。
合理主義と反対な考えがあるが、そこがとてもいい。合理主義ではもう無理だとわかってしまうことでも
無理ではないというところがいい。合理主義は、無用であることを除外するが、ここでは無用であるほど
必要なことだとされる。馬鹿げた真逆な発想があるかと思えば、どきっとさせられるほどの鋭い発想をも
つ『道徳経』は、いろいろと考えさせられた。古代社会のあり方、農村社会での身の持ち方が説かれてい
た。だから、都会で暮らすものにとっては首を傾げざるを得ない、つまりそんなことをすれば生きられな
いじゃないかという、事柄が当たり前のことのように書いてあって、その通りでないと困ることもあるな
と納得させられる。そのように『道徳経』というものは、道や徳といった理想を目指すものがある一方、
その時代の現実も含まれているといった不思議な書物でもあった。『道徳経』の中には、『論語』で孔子
が述べていたことに類似することがあったので、この時代やそれ以前の常識的なことや理想が編纂されて
できあがったものでもあるようだ。
現代において、経済というものも、伝統といった非合理な部分と科学で解明された合理的な部分が融合して、ある規模の経済を維持していたものだとすると、合理的なものだけを科学によって優先して、非合理なものを切り捨てたとすれば、切り捨てられた分、経済の規模は縮小してしまうことになるのは明白である。福澤諭吉は智恵を優先するがあまり、徳性を否定はしないもののその徳性の意義を矮小化しすぎたところがある。徳性が智恵を奪うという誤った思考を持っている。智恵を奪うのは、徳性でなくて暴力であることを忘れてはならない。徳性があれば、自分を犠牲にしても他の人々に智恵を分け与えるはずである。智恵とは科学技術につながるであろうが、そのあまりも合理主義が跋扈するために、却って紋切り型に陥って、科学的な惑溺が近代的な慣習となって、この日本社会を停滞させることになってしまっている。遺伝子の優性遺伝というものが先天的な要因であるということに過ぎないのに、それが身分階級の擁護に使われ、後天的に開発されるべき努力や知能の発展というファクターを奪ってしまっている。「天は人の上に人をつくらず」ということは、天は理想であるイデアを指し、人類の目標を指している。理想を目指しながら、平等に達するという考え方は非常に優れていると思う。これを実現させることが民主主義の目指すところだったはずである。遺伝子の存在を、封建主義の復活の理由にしてはならないと思う。それは、教育の敗北であり、努力の価値の低下をもたらし、現存の差別的経済の温存と相続を可能にしてしまう。人々の能力が低下し、差別が大きくなれば、この日本の財産を国内に温存しておくことは難しくなり、やがて国力の低下を促すにちがいない。我が子孫の可愛さに、日本の将来を行きづまらせてしまったのだろう。国家の行きづまりを地方分権で何とかしようとするが、法律を何とかしないといけないらしい。できるところから、進めていくしかない。大国と大国に挟まれた小国がさらに分権化して小邑にしてしまったら、呑み込まれてしまうかもしれない。それをどのように防ぐかを考えなければいけない。政府を無力化していても、国民が元気なうちはよい。もし国民に元気がなくなった場合、地方分権は恐いことになる。まあ、これは最悪のことを想定していっているだけのことだ。
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