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「女房の身こそあれ、男の守刀をかけたるためしは、いかに」と仰せければ、道命「これはよしある刀に
て候。いかにと申すに、われは是五条の橋の捨て子にて候を、養子の父の育てて、人となされ候也。また
われに此刀を添へて捨てられし刀なれば、これを母と思ひ、身をも放たず持ちたる」と申しければ、女房
なほあやしく思ひ、「さては御身はいくつになり給ふぞ」と問ひ給へば、道命「子にて捨てられ候よし承
り候。今ははや大になり候」と語りければ、「産衣は何にて候」と問ひ給へば、「あやめの小袖のつま
に、一首の歌を書きたり」。「いかに」と仰せければ、やがて道命かくとあり。
「百年に又百年は重ぬとも七つ七つの名をばたへじな
とよみ候歌也」といへば、和泉式部は捨てし時、鞘をば留め給ひて、是をばわが身のかたみと思ひし故
に、身を放たず持ちたりし程に、鞘を取り出して合はすれば、疑ひもなきもとの鞘なり。こは何事ぞ、親
子を知らで逢ふ事も、かかるうき世にすむ故なり。是を菩提の種として、都をいまだ夜深に出でて、尾上
の鐘の浦伝ひ、響は何と飾磨潟、霞をしのぎ雲を分け、播磨国書写へ上り、性空上人の御弟子となり、六
十一の年得心し給ひける時、書写の鎮守の柱に、御歌を書き付け給ひ、かくばかり、
暗きより暗き闇路に生れきてさやかに照らせ山の端の月
とよみて、書きつけ給ひけるによりて、歌の柱といふことは、播磨国書写よりこそははじまりたると申す
なり。
(『御伽草子』 和泉式部 より )
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