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十 椎葉山の狩の話を出版するについては、私はいささかも躊躇をしなかった。この慣習と作法とは山中のおおやけである。平地人が注意を払わぬのと交通の少ないために世に知られぬだけで、われわれはこの知識を種に平和なる山民に害を加えさえせずば、発表しても少しも構わぬのである。これに反して『狩之巻』一巻は伝書である。秘事である。百年の前までは天草下島の切支丹のごとく、暗夜に子孫の耳へ私語いて伝えたものである。もしこの秘書の大部分がすでに遵由の力を現世に失って、椎葉人のいわゆる片病木のごとくであることを想像せぬならば、私はとても山神の威武を犯してかかる大胆な決断をあえてせぬはずである。しかし畏るるには及ばぬ。『狩之巻』はもはや歴史になって居る。その証拠にはこの文書には判読のできぬ箇所がたくさんある。左側に――を引いた部分は、少なくも私には意味がわからぬ。それのみならず実のところ私はまだ山の神とはいかなる神であるのかを知らないのである。誰か読者の中にこれをよく説明して下さる人はないか。道の教えは知るのが始であると聞く。もし十分に山の神の貴さを会得したならば、あるいは大いに悔いて『狩之巻』を取り除くことがあるかも知れぬ。その折にはまた狩言葉の記事の方には能う限り多くの追加をしてみたいと思う。
明治四十二年二月一日
東京の市谷において
(『後狩詞記』 柳田國男 より )
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文学・宮崎
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遠来の客は多くの家の客坐において款待せられた。縁の外はわずかの庭でその前面はまったく打ち開けて居る。開けて居ると言っても狭い谿(たに)を隔てて対岸はすべて重なる山である。客坐の客は少し俯けばその山々の頂を見ることができる。何年前の大雪にあの山で猪を捕った。あの谷川の川上で鹿に逢ったというような話は、皆親しくそのあたりを指さして語ることができるのである。これにつけて一つの閑話を想い出すのは、武蔵の玉川の上流棚沢の奥で字峰というところに、峰の大尽本名を福島文長という狩の好きな人が居る。十年前の夏この家に行って二晩とまり、羚羊(かもしか)の角でこしらえたパイプを貰ったことがある。東京から十六里の山奥でありながら、羽田の沖の帆が見える。朝日は下から差して早朝はまず神棚の天井を照らす家であった。この家の縁に腰を掛けて狩の話を聴いた。小丹波川の源頭の二丈ばかりの滝が家の左に見えた。あの滝の上の巌には大きな穴がある。その穴の口でこの熊〔今は敷き皮となって居る〕を撃ったときに、手袋の上から二ヶ所爪を立てられてこの傷を受けた。この犬は血だらけになって死ぬかと思ったと言って、主人が犬の毛を分けて見せたれば、彼の背には縦横に長い瘢痕があった。あの犬にも十年逢わぬ。この親切な椎葉の地侍たちにもだんだん疎遠になることであろう。懐かしいことだ。
(『後狩詞記』 柳田國男 より )
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九 次には猪を撃つ鉄砲のことである。村に伝えらるる写本の記録『椎葉山根元記』によれば、奈須氏の惣領が延岡の高橋右近大夫〔西暦一五八七−一六一三〕の幕下に属しておった時代に、椎葉の地頭へ三百梃の鉄砲が渡された。この時代は明治十年の戦時とともに、椎葉の歴史中最も悲惨なる乱世であった。十三人の地侍は徒党して地頭の一族を攻め殺した。このときの武器はすべて鉄砲であった。元和年中に平和が恢復してのち、この三百梃は乙名差図をもって百姓用心のためにそれぞれ相渡したとある。寛延二年の書上を見ると、村中の御鉄砲四百三十六梃、一梃につき銀一匁の運上を納めて居る。今日ある鉄砲は必ずしも昔の火縄筒ではないようだ。その数は寛延度よりも増して居るや否や、運上の関係は如何なって居るかはすべて知らぬ。またいかなる方法で火薬を得て居るかということも知らぬ。しかし鉄砲の上手は今日も決して少なくないと考えられる。それはとにかく、椎葉の家の建て方はすこぶる面白い。新渡戸博士が家屋の発達に関する御説は、この村においては当たらぬ点が多い。山腹を切り平らげた屋敷は、奥行きを十分に取られぬから、家がきわめて横に長い。その御面はことごとく壁であって、前面はすべて二段の通り縁になって居る。間の数は普通三つで、必ず中の間が正庁である。三間ともに表から三分の一のところに中仕切りがあって、貴賤の坐席を区別して居る。われわれの語で言えば入側である。正庁の真中には奥へ長い炉があって、客を引く作法ははなはだしくアイヌの小屋に似ておる。すなわち突当りの中央に壁に沿うて、床の間のようなところがあって、武具その他重要なる家財が飾ってある。その前面の炉の側が家主の席であってこれを横坐という。『宇治拾遺』の瘤取の話にも横坐の鬼とあるのは主の鬼すなわち鬼の頭のことであろう。横坐から見て右は客坐といい、左は家の者が出て客を款待す坐である。
(『後狩詞記』 柳田國男 より )
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八 椎葉村は世間では奈須という方が通用する。例の『肥後国誌』などには常に日州奈須といって居る。村人は那須の与一が平家を五箇の山奥に追い詰めて後、子孫を遺して去った処だという。昔の地頭殿の家を始め千戸の七百は奈須氏であるが、今はすべて那須という字に書き改めて居る。しかしナスというのは先住民の残しておいた語で、かかる山地を言い現わすものであろう。野州の那須のほか、たしか備後の山中にも那須という地名がある。椎葉といい福良というも今はその意味はわからぬけれども、九州その他の諸国において似たる地形に与えられたる共通の名称である。奈須以外の名字には椎葉である黒木である甲斐である。松岡・尾前・中瀬・右田・山中・田原等である。なかんずく黒木と甲斐とは九州南部の名族で、阿蘇家の宿老甲斐氏の本拠も村の北隣なる高千穂庄であった。明治になって在名の禁が解かれてから、村民は各縁故をたどって、村の名家の名字のいずれかを択んだが、それ以前には名字を書く家は約三分の一で、これだけをサムライと称して別の階級としてあった。その余はこれを鎌サシという刀の代りに鎌を指す身分ということであろう。昔の面影はこのほかにも残って居る。家々の内の者すなわち下人は女をメロウといい男をばデエカンという。デエカンすなわち代官である。近代こそ御代官はよき身分であったが、その昔は主人を助けるいっさいの被管は大小となくすべて、代官であった。
(『後狩詞記』 柳田國男 より )
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七 かくのごとき山中に在っては、木を伐っても炭を焼いても大なる価を得ることができぬ。茶は天然の産物であるし、椎茸には将来の見込みがあるけれども、主たる生業はやはり焼畑の農業である。九月に切って四月に焼くのを秋藪といい、七月に切り込んで八月に焼くのを夏藪という。焼畑の年貢は平地の砂原よりも低いけれど、二年を過ぐれば土が流れて稗も蕎麦も生えなくなる。九州南部では畑の字をコバと訓む。すなわち火田のことで常畠・熟畠の白田と区別するのである。木場切りのためには山中の険阻に小屋を掛けて、蒔く時と刈る時と、少なくも年に二度はここに数日を暮らさねばならぬ。わずかな稗や豆の収穫のために立派な大木が白く立枯れになって居るありさまは、平地の住民にはきわめて奇異の感を与える。以前は機を織る者が少なかった。常に国境の町に出でて古着を買って着たのである。牛馬は共に百年このかたの輸入である。米もその前後より作ることを知ったが、ただわずかの人々が楽しみに作るばかりで、一村半月の糧にもなりかねるのである。米は食わぬならそれでもよし、もしいささかでも村の外の物が欲しければ、その換代は必ず焼畑の産物である。家に遠い焼畑では引板や鳴子は用はなさぬ。分けても猪は焼畑の敵である。一夜この者に入り込まれては二反三反の芋畑などはすぐに種までも尽きてしまう。これを防ぐためには髪の毛を焦がして串に結び付け畑のめぐりに挿すのである。これをヤエジメと言って居る。すなわち焼占であって、昔の標野、中世庄園の榜示とその起源を同じくするものであろう。焼畑の土地は今もすべて共有であるが、また茅を折り連ねて垣のように畑の周囲に立てること、これをシオリと言って居る。栞も古語である。山に居ればかくまでも今に遠いものであろうか。思うに古今は直立する一つの棒ではなくて、山地に向けてこれを横に寝かしたようなのがわが国のさまである。
(『後狩詞記』 柳田國男 より )
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