平成17年4月6日から平成23年9月6日までのブログ

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文学・宮崎

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後狩詞記 2

 『肥後国誌』の伝説によれば、頼朝の富士の巻狩には阿蘇家の家臣を呼び寄せて狩の故実を聴いたとある。しかし坂東武者には狩が生活の全部であった。まだ総角(あげまき)のころから荒馬に乗って嶺谷を駆け巡り、六十年、七十年を狩で暮らす者も多かったのである。何も偏土の御家人に問わずとも、立派に巻狩はできたことであろうから、この説は信用するには及ばぬ。がただこの荒漠たる火山の裾野が原も、阿蘇の古武士にとっては神の恵みの楽園であって、代々の弓取がその生活の趣味をことごとく狩に傾けておったことは明らかである。ところがその大宮司家もある時代には零落して、初めは南郷谷に退き、次には火山の西南の方、矢部の奥山に世を忍び、さらにまた他国の境にまでも漂泊したことがある。祖神の社頭には殺生を好まぬ法師ばかりが衣の袖を翻えし、霜の宮の神意は知らいでも、阿蘇谷の田の実はもはや他国の武家の収穫であった。昔、肥前の小城の山中で腹を切った大宮司は、阿蘇の煙の見える所に埋めよと言ったということである。その子孫が久しく故土に別れておったのである。さぞかしはるかに神山の火を眺めて、産土の神と下野の狩を懐かしがったことであろう。しかるにようやくのことで浦島のように故郷に帰ってみれば、世はすでに今の世になっておった。谷々の牟田には稲が栄え、草山には馴れたる牛馬が遊んでいて、鹿・兎・猪・狐の類は遠く古代へ遁げ去っておったのである。昔を写す下野の狩の絵には、隠れたこんな意味合も籠って居るのである。
 
(『後狩詞記』 柳田國男 より )

後狩詞記 1

                         
 
一 阿蘇の男爵家に下野の狩の絵が六幅ある。近代の模写品で、武具や紋所に若干の誤謬があるということではあるが、私がこれを見て心を動かしたのは、その絵の下の方に百姓の老若男女が出て来て見物するところを涅槃像のように画いてあるのと、少しは画工の誇張もあろうけれども、獲物の数が実におびただしいものであることと、侍・雑人までの行装がいかにも花やかで、勇ましいといわんよりはむしろ面白い、うつくしいと感ぜられたこととである。下野の年々の狩は当社厳重の神事の一つであった。遊楽でもなければ生業ではもちろんなかったのである。したがってある限りの昔の式例作法はこれを守りこれを後の世に伝えたことと思われる。これがまた世の常の遊楽よりもかえってはるかに楽しかったゆえんであって、例としては小さいけれども、今でも村々の祭礼のごとき、これをとり行なう氏子の考えが真面目であればあるほど、祭の楽しみのいよいよ深いのと同じわけである。
 
(『後狩詞記』 柳田國男 より )
 私たちが高千穂を出発するとき、この旅行ではじめての雨がふりだしていた。山中であるから、雨がふるとさすがに寒い。私は下痢で悩んでいたので、熊本まで五時間のバスの中で便意を催したらどうしたらいいのかと人に云えない苦労のために意気銷沈していたのである。
「阿蘇の方では雪かもしれません」
 雨中にバスまで見送ってくれた古老が云った。私はこのへんでも雪という言葉があるということに――それは当然なことであるにもかかわらず、ふと胸をつかれたのである。私の生れたところは雪国だ。雪、雪、雪。いつも暗い冬空。しかし、ふと雪の言葉で気がつくと雨の高千穂も暗いのだ。空も暗い。山も暗い。町も暗い。人顔もやっぱり暗い。日向の明るさというものも、空がくもって冬雨がふると、やっぱり暗くなるのだなという単純な事実に降参したような気持であった。人間の小ささ、哀れさがつくづくせつなかったのだ。
 バスは雨の中を走りつづけ、やがて山中で濃霧になった。
「カーブの標識が全然見えない」
 運転手は苦悶の呻きを発した。彼は必死であった。私は濃霧にはじまって濃霧に終ったこの旅行が、高千穂の地の宿命かもしれないと思ったりしたのだ。霧のはれまはあるが、霧のはれまに昔ながらの自分を見出して安堵することが宿命の人々。霧がふり、霧がはれ、もとの自分を見出して一生を子孫につないできた温和で素直な漂泊の遊芸人たち。まだ車窓に見ることのできる屋根に千木をいただいた家々が非常に物悲しいものに映じたのであった。
(昭和三十年二月)
 
(『高千穂に冬雨ふれり』 坂口安吾 より )
 いったいに九州は駅弁がすばらしいところで、私たちは駅弁を食うのが楽しみであった。宮崎県内を自動車で走りながらも中食は駅弁を買って食うのを楽しみにしていたものだが、山中へはいると旅館が土地の食べ物を食べさせてくれないので残念だった。こういう特色のある土地ではその土地の人たちが日常たべているものを食べさせてくれるのが何よりのサービスだ。高千穂の山中へ行って都会なみの料理を食いたいとは誰も考えていないのだ。土地の人が食べあいている平凡なものが実は旅行者をよろこばせるものである。こういうところに私は一つの日向の気風を見るのである。自分たちが日常たべたり行ったりしているような平凡なそしてイノチのこもったものに対外的な価値を見出すことを知らないのである。そして神様は高天原の神様でなければいけないことになってしまい、高千穂太郎の御神体は縁の下に朽ちてしまうのである。しかしそのような気風に、日向山中の人々の歴史が語られているのかもしれない。温和で素直で陽気な漂泊芸人の歴史が。
 
(『高千穂に冬雨ふれり』 坂口安吾 より )
 私のような碁好きな者にとっては日向はなつかしい国なのである。碁盤の最上のものはカヤの木でつくられる。カヤの大木というものは少いものだが、その産地が日向の小林の奥だ。また碁石の最良のものは日向蛤に那智黒と云って、白石が日向の蛤でつくられ、黒石が那智の黒石でつくられる。日向の日向市のあたり、伊勢ガ浜というところでこの白石がつくられているのである。大きな工場というものはなく、家庭工業で、大きな蛤を筒でくりぬく。自動車の窓からその作業の風景が見えたが、私にとっては懐しいものであった。
 最良のカヤ盤と白石。神話の国には大そうピッタリした産物だが、もっとも神様や昔の天皇がそういうものを使っていたわけではない。正倉院御物でも見られるように昔は盤も石も鉱石宝石の類いであったらしい。しかし私が面白いと思うのはカヤ盤の発見はとにかくとして、白石を蛤でつくりだした誰かの独創である。こういう独創というものはラムネのタマを発明した人や、コンニャクをはじめて作ったり食ったりした人と同じくらいバカバカしくてなつかしいものだ。こういう独創的な大人物の名前などはいかなる本にもとどまるはずがないものだが、その独創は長く後世に生きのこり、恐らく数千数万年のイノチをもってなおつきることを知らないのかもしれないのだが、これがまことの文化というものなのだろう。
 この蛤の碁石がいつか日向蛤というものに定着したのはどういう次第か知らないが、たぶん大きな蛤が日向に多いせいかもしれない。蛤というものは食物だ。厚さ四分五分という碁石がとれるような蛤ならよほど大きいに相違なく、貝殻を碁石にすれば当然その肉は食べなければならないわけで、私はその大蛤を食ってみたいと思っていたのだが、あいにくの下痢で諦めなければならなかった。
 日向では土地の人が見せたがるものよりも忘れているものの方に心をひかれるものが多い。たとえば大蛤の場合にはその肉がどうなっているのだろう。うまい料理を発明して食わせる人がいないのかなぞということが大そう旅人の気懸りになるのである。神様の場合でもそうだ。土地の人が見せたがる神々よりも高千穂太郎なぞに心をひかれるのである。それというのも、土地の本当のイノチというものがその方に籠っているからに相違ない。
 
(『高千穂に冬雨ふれり』 坂口安吾 より )
 

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