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心思の自由
堅艦が波をけたて、とてつもなく遠くまで進んでゆく。これは風力によってであろうか。ちがう。昔イギリス人にワットという人がいた。蒸気でもって船を進めることができると知り、創意工夫をこらして、蒸気を使って機械に応用し、人間の意志のように、動かした。そこで、汽船の利用が世間で行なわれることができたのだ。はじめにワットが創意工夫をこらすことがなければ、もろいいくさ船や帆船で、どうして狂瀾怒濤の危険をおかすことができたろうか。これだけではない。ガリレイやニュートンの物理学における、ラファエル、ミケランジェロの絵画における、モーゼ、キリストの宗教におけるように、その他の宗教家、思想家、学者をはじめ一芸一能にすぐれた人にいたるまで、みな自分で考えつくして発見しなかったものはない。
西洋諸国だけではない。中国においてもそうだ。堯舜が賢者に位をゆずり、禹湯が子に伝え、孔子が仁をのべ、孟子が義を説き、孫武や呉起が兵法を論じ、左丘明と司馬遷の文章における、李白、杜甫の詩におけるのは、同じくみな考えつくして発見しなかったものはない。わが国では、本居宣長、平田篤胤の国学や、柿本人麻呂、山部赤人の和歌や、野見宿袮、当麻蹶速の相撲、源義家、為朝の弓、紀平治のつぶて、小栗判官の馬、馬琴や春水の戯作なども、みな考えつくして発見しなかったものはないのである。
ところで、今、宗教家、思想家、学者、芸能人が、みなただ先人のあとを追うだけで、自分に新機軸を出させなければ、後世はどうして彼らの大偉業をみることができようか。どうしてその名篇やしっかりした作品をみることができようか。どうしてその巧みな造りをみることができようか。
これは何も宗教家、思想家、学者、芸能人にかぎったことではない。日常茶飯事でもまたそうだ。鋤をとり耕す者、はかりをもって店に座す者、のこぎり、のみをあやつる者、鏝をあやつる者、車をひく者、舟をこぐ者、弁護を仕事とする者、演説にたずさわる者、さらには落語家、俳優のたぐいに至るまで、みな自分で考えつくして仕事をし、その日の糧をえようとしない者はない。それこそ、人びとが自分で考えつくして発見しようとし、それで利益をえようとしているのだ。それこそ、人間の心に自由の性質があることの明らかな証拠とするべきである。
孔子は性格についてはいわなかったけれども、弟子の曽子につげていった。「わが道は一以て之を貫く」 (『論語』里仁)と。この一心で万事に応用できる。つまり、孔子は人心に自由の性があるとしたのである。釈迦はいった。「ただこの一事実だ」と。その意味も孔子の「一貫の義」と同じだから、釈迦もまた人心には自由の性があるとしているのである。たとえ、聖人や仏がこのようにいわなかったとしても、前にあげた事実について考えれば、人心に自由の性格があることは明々白々ではないか。
さて、人みな自由の心がある。その上で宗教をたて、道学を開き、芸を講じ、技術を開発し、農業につとめ、商業に専念するときは、これこそ人びとが、おのおのその自由の心を運用して、それを宗教に道学に芸に技術に農業に商業に及ぼしているのである。政治だけなぜ一つ例外なのか。
昔のことだが、イギリス、フランスの民は自問自答して言った。「自分に罪がなくても、天子や宰相が一枚の紙きれを出してわたしの首をはねかねない。自分に財産があっても、天子や宰相が一枚の紙きれで自分から奪ってしまうかもしれない。自分が、税金を納め、命令で働きに出ても、はたして何に使われているのか。わたしが戦陣に出かけ、いのちを戦闘でおとしてしまっても、はたして誰の利益になるのか。わたしがもし事を論じて非難したとすれば、罪におとされはしないだろうか。わたしがもし本を書いて諷刺するならば、罪におとされはしないだろうか。
わが天子は聖明である。わが国の宰相は賢良である。今わたしは、もちろんこうした心配をすることはないけれども、千年万年のあとはあぶなくなくてすむだろうか」と。
このことばがひとたび発せられたことこそ、イギリスで大憲令の起こった理由であり、フランスで一七八九年の人権宣言が発せられた理由である。
こうしてみれば、イギリス、フランスの民が政治にたずさわるのは、その自由の心を運用して、効果を収める点で、宗教家、思想家、学者、芸能人が、志しているところと同じである。ああ、なんと彼らは幸福であろうか。
ヨーロッパ人もアジア人も、ひとしく人間である。欧米では、みな自由の心を運用して政治におよぼさないものはなく、アジアでは、ただ政治におよぼすことができないだけでなく、まだかつて政治におよぼすことが急務であることを知らない。天が人間に福利を与えることが平等でないのも、ここにまで至っている。それなら、どうしたらよいだろうか。われわれ三千五百万の国民も相談しあって憲法を作り、政治にあずかることをはかろうとするだけである。つまり、かつて詔勅が国中に発せられた理由である。顔回はいった。「舜といってもどんな人間なのだ。わたしとてどんな人間だろうか」 (『史記』)ナポレオンはいった。「すくなくともしようと欲すれば、みな実行できるのだ」。わたしは何も天をそしり、人のうらみを買うことをしようとしているのではないのである。
(第四号、明治十四年三月二十五日)
(『東洋自由新聞』 第四号 中江兆民 より )
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東洋自由新聞
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君民共治の説
政体の名称には数種類ある。立憲とか、専制とか、立君とか、共和制とかだ。だが事実を調べてみれば、立憲の形をとった専制もあり、共和であって立君なのもある。共和制はまだかならずしも、民政(人民政治)ではなく、立君もまた、かならずしも民政でないわけではない。
今日、日本の人びとは、みな政治学に熱心であり、政体の是非得失を論じないものはいない。だが東洋の風習は、いつも耳学問であって、脳を使ったことがない。形態を模倣して精神を問題にしなかった。耳学問のやからは、しばしば名前にとらわれて実態をきわめていない。共和の字づらにうっとりして、いっしょうけんめい、かならず昔フランスがしたこと(フランス革命)を行なって、わが国の政体を改正しようと欲する者がいないわけではない。それが間違いであることは、もともと彼らの無学無知の結果であって、深くとがめるに足りないけれども、今この幻想を解明しておかなければ、悪人が善人のなかにまぎれこんでしまいかねないし、大いにわれわれの自由の発展を妨害するだけでなく、もしかすると木食い虫が侵蝕してしまって、知らぬうちに国家の元気のいくぶんかをそかなうことがあるだろう。そうだとすれば、この幻想を解明しておくことが、現在の緊急の任務である。したがって、一日の紙面を費やして論じよう。
共和政治の字づらは、ラテン語の「レスピュブリカー」を訳したものだ。「レス」は物である。「ピュブリカ」は公衆だ。だから、「レスピュブリカー」は、つまり公衆の物であり、公有物の意味だ。この公有の意味を政体の名前に及ぼして、共和共治の名をつけたのである。ほんとうの意味はこういうことである。だから、いやしくも政権を全国人民の公有物とし、ただ有司(官僚)がほしいままにしないときは、みな「レスピュブリカー」である。みな共和政治だ。君主があろうとなかろうと問題ではない。そうだとすれば、いま共和政治を立てようと思うとき、名前を求めるのか、さもなければ実をとろうとするのであるか。名前を求めるときは、昔のベニスなども共和といっていた。しかし、実際には、けっして人民を政治に関与させたものではなく、貴族たちが集まって行なっていたのにすぎない。これがほんとうの共和政治であろうか。それだけではない。最近のフランスの共和政治のごときも、イギリスの立君政体にくらべるとき、共和の実態は、はたしてどちらにあるというのだろう。そうしてみると、共和政治は本来、その名前に眩惑されるべきではない。もちろんのことだが、外面の形態にこだわるべきではない。
ためしに、イギリスの政治をみるがよい。名称も形態も、ともに厳然たる立君政治ではないか。しかし、その実態を考えるときは、少しも独裁専制があったためしがない。宰相は国王が指名するものだけれども、議会や世論の希望したもの以外からとることはできない。要するに、全国人民が公選するのであって、アメリカ合衆国人民が大統領を選挙するのとかわらない。
その法律は全国人民の代議員が討論し、きめるのであって、もちろん、二、三の有司が勝手に出したり入れたりするものではない。つまり、宰相を選挙するものは人民である。法律を作るのも、また人民である。人民がしだいに自分で法律を作り、自分で選んだ宰相にそれを執行させれば、行政や立法の権はともに人民の共有物である。
その君主というものは、立法、行政二権の間にいて、人民に和解、調停をすすめるにすぎないのである。官吏とて同じことだ。共有でないものはなく、省庁とて共有でないものはない。これを、「レスピュブリカー」でないといえば、世界の何を「レスピュブリカー」というのか。「レスピュブリカー」は形態にこだわるべきものではなく、共和政治の名前にまどってはいけないことは、これでわかるはずである。
現在、共和政治の名称にまどわされる党派は二つある。一つは共和政治を憎みきらうものであり、もう一つは共和政治にあこがれているものである。共和制を慕う者は論じていう。共和でもって政治をするときは、君と民とを分けるべきではないと。その意味は、かならずアメリカまたはフランスの政体のようにしてしまおうと願っているのであろう。共和制を嫌う者は論じていう。もし共和制で政治を行なうときは、わが君主をどこに置こうとするのかと。その意味は、わが国がアメリカやフランスのように、君主を置く場所がなくなってしまうことをおそれるのである。
これはみな、皮相の見解であり、形にこだわる説でしかない。もし、共和制論者が眩惑のまま説をかえず、結局それを実行に移してしまえば、そのわざわいは、はかりしれないものがあるだろう。共和制反対派に志を遂げさせてしまえば、圧制、束縛の政治がますます力をたくましくし、害はかならずいいきれないものになるであろう。ああ、ちょっとしたちがいでもって千里の誤りが出てくる。心が寒くなるではないか。孔子はいった。「必ずや名を正さん」 (きっと名称の整理からはじめるだろう。『論語』子路)。
名の混乱しているかぎり、数千万の国民を長く五里霧中にうろつかせ、出口をわからなくさせてしまうだろう。
だから、われわれが「レスピュブリカー」の実態を主としてその名称を問題にせず、共和政治のことばを使わず、君民共治という理由はそこにある。君民共治が現在行なわれているのは、さきにあげたイギリスである。ああ、人民が政権を共有することがイギリスのようになることができれば、文句はないのではなかろうか。こうなったときには、共和制論者もうらみをとどめることなく、反共和制論者も心配しないでよいはずだと思う。
(第三号、明治十四年三月二十四日)
(『東洋自由新聞』 第三号 中江兆民 より )
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社説
わたしは、今月十八日、第一号の紙上で、わたしが多く人びととともに考えたい事項をあげ、題目をかかげておいた。今日はその前に、ひとつ、みなさんに述べたいことがある。まずそれを論じてから、本題に入らせてほしい。
およそ、古今の人民が大業を成就できた理由は、過激な言辞を発したためではなく、精密な議論をたてたことにある。軽挙妄動に走ったのではなく、強固な意志を身につけていたことにある。議論が精密でないときは、原理がはっきり見えず、実行にさいして、まちがいをまぬかれない。志操が堅固でないときは、うまく事理にかなっていたところで事業にあてはめることはできない。かりにも事業に応用しないとしたら、まだ事理をえていないのと同じことである。
言論が過激である者や、行動が軽率な者は一時の快感があるだけで長い将来の利益をはかることはできない。すくなくとも、わたしは、みなさんと一時の快感を楽しむだけではすまないのだ。まさしく身に益し、人に益し、家に益し、国に益し、人類に益したいと願っているのである。そうだとすれば、議論は精密さをいとわず、綿密にこまかく分析し、かならず正しい結論を出すべきであり、志は堅固をいとわず剛気を養い、がんばりつづけ、かならず実践に移すべきである。
町なかのいさましい人間が、腕まくりをして人びとの中に入り、口角沫をとばして、熱弁をふるえば、聞く者はひざをたたいて感心しない者はない。しかし、一歩さがってその顛末や順序を考えるとすると、竜頭蛇尾であったり、頭は牛で体は犀であったり、魚を樹上に躍らせ、鳥を水底に飛ばそうとするたぐいだ。こんなことでは、その主旨がどこにあるかを求めようとしてもえられない。まして、その論議が正しいか否かと問うこともできないではないか。こんなことを事業に試みるに至っては、弊害はさらにはなはだしい。これは、「方柄を以て円鑿に内れん」(四角いツカを円いのみに入れること。とんちんかんなさま。『史記』)としたり、「舷に刻して剣を索めんと欲す」(落とした場所で舷に刻みをつけ剣をさがそうとする。『呂氏春秋』察今)るものであり、身はきずつき、ひとにわざわいし、家をほろぼし、国をあやまらないものはきわめて少ない。李斯、商鞅が秦朝においてそうであったように、王安石が宋において、ロベスピエールがフランスでそうであったように、みな自分の身にわざわいし、国にわざわいし、世の人びとのせせら笑いのたねになってしまった。つまり、理をはっきり見きわめずに、無理に事業に着手したためである。われわれも、みなさんとともに、深くいましめなければならないではないか。
わたしが論じてゆく論法は、諄々として老人の話に似ているところもあろう。世の矯激の徒は、もしかすると、わたしをそしって、のんきすぎる人間だとするだろう。これでもわたしは、議論が激発に流れて、中正をえていないのではないか、とおそれているのだ。どうして、それに加えて、自分で鞭うち、正しい道の外に逸脱することができようか。それに、わたしは、はじめから敵を作ろうと欲する者ではなく、ただ至理に到達することだけを求めている。すくなくとも至理に到達することができれば、どうして事業におよぼすことができないなどと心配ししょうか。またどうして人を傷つけたり、憎んだりすることが必要であろうか。
しかしながら、自由の権がまだ興っていないわが国で、自由の権を興そうとし、憲法がきまっていない国で憲法をきめようとする。天下に、これほどむつかしいことはない。むつかしければかならず情勢が変転することは、あらかじめ考えておかなければならない。また猛進するときにも、ゆっくり進むときも、おのおのその時期があるのだ。
わたしやみなさんが、さいわい至理を獲得することができ、この論理がすっかり明らかになり、時至り機熟し、わが三千五百万の兄弟が、みなすべて自由の権によることができるようになったばあい、そのときでも、もし万分の一でもいばらが道をさえぎることがあり、われら三千五百万の人民をふせぎとめて、自由の道に入ることを妨害するときは、わたしとて諄々として説き、ゆっくり本を読んで歳月を過ごしてしまい、みずから屈服することができるであろうか。となれば、大声一喝し、手につばを吐いて立ち、けりとばしてすぎるだけである。
ああ、聖なる天子もいらっしゃり、頭のいい宰相も位にいるはずである。仁義を施し、恩恵はゆたかで雨や露が原野をうるおすかのようである。「化理沛然として波濤の江海に迸る」 (徳も教えも事蹟も明らかなこと、柳宗元のことば)のように、この間は詔を発して、立憲制にしたがうの意志を表明された。立憲は、つまるところ、わたしのいう君民同治である。府県の民には、意見を聞き、投票によって議員を選び府県会を開かせた。天皇の仁慈は、ここまで来ている。われら三千五百万の同胞が、なぜ自由の境地に入ることをためらわなければならないのか。わたしは、ただ至理を学んで時を待つべきである。天下の君子は、願わくは、安心して騒ぎたてないでもらいたい。わたしが事を論ずるのを、のろいといってどがめないでいてもらいたい。
(第二号、明治十四年三月二十三日)
(『東洋自由新聞』 第二号 中江兆民 より )
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祝詞(在東京高知県士 中江篤介稿)
地上に生まれおちて大声で泣き叫ぶ者は、いったい人間であろうか。そうではない。人の子であってまだ成人していない者である。その泣き声は、思うところを表現しているのだが、自分では気がついていないのではないか。いやしくも、思うところを表現するときは、これを自由権の萌芽といってもよいのである。
子供であってまだ成人していない者ですら、自由の権がある。それなら、成人して五尺の身体をもった男たる者、この権利がないわけはないだろう。ルソーはうまいことをいった。「人たる者で、自由権のない者は人間ではない」
あたたかい着物を着、うまい物を食い、善をなし、知識があきらかであることを欲するのは人の性である。賢者や智者だけがこの心を持っているのではなく、すくなくとも、人間にはみんなこれがあるのだ。
だから、車夫や、飛脚がおろかだからといって、頑固な悪者だと呼んだとしたらたちまち怒り、無知な人間だと呼べばたちまち怒り、人に善があればこれを慕い、技術のある人に対してはこれをほめる。そして、いっしょうけんめい努力し、必死になって働き、一日もあきることのないのは、飽食煖衣に安んじたいと願っているのである。
考えれば、人びとがこのようにして進歩してゆくことこそが、わが国がますます強盛にむかう理由なのである。人びとが努力する理由は、まさしく自由の権があるからである。草木にたとえよう。情性はちょうど花や葉のようなものであり、自由の権はちょうど生気のようなものである。根が深く地中に入り、養分をとってくるのでなければ、花や葉のあざやかなことを望むことはできない。まして、鋤や斧で切ってしまったら、枯れてしまうのに何のふしぎがあろうか。
そうだとすれば、つぎのことがわかる。今の欧米諸国で、文物が盛んだと称しているものは、みな、人民の自由の権を拡張することをもって第一の任務としていないものはない。民の自由権を拡張するのには、方法はいろいろあるけれども、要するに二つしかない。民を富まし自信をつけさせることが一つであり、もう一つは民を教えて自覚させるようにすることである。
民を教養する肝心な点は、国家も人民もともに憲法を定め、守りぬくことである。有司(官僚)が権力をとり、それをかさに着て自分勝手なことをさせないことにある。農業、工業、商業を発展させ、美徳や技術の教えが進むのはそれから後である。もし国に一定の憲法がなく、有司が意をほしいままにして民を虐待するときは、あたかも草木を石の上に植えてさらにそれを切りとってしまうようなものである。モンテスキューはいった。「勝手気ままな政治は、果実を取るために幹を断つものである」と。まことに正しいことばだ。とすれば、国家にたずさわる者は、民の自由の権の拡張につとめるのが第一である。
わたしの友の西園寺君公望は、深くこれを見きわめており、最近、同志と謀り、新しく新聞を発行して、『東京自由新聞』と名づけた。つまり、わが日本国民の自由の権を拡張し、ひいては、東洋諸国におよぼそうとしているのであろう。わたしは、貧しいただの一書生であって、廟堂の深いはかりごとはまだ聞いたことはない。しかし、自主の大義を唱え、君民同治の制を主張することに至っては、傍観者ではない。この盛挙をきき、よろこびにたえず、社員に加えてもらうことができた。こうなれば、無学ではあるが、意見を紙上に発表してゆく。天下の君子は取るべきところを取って、いたらざるところを教えてくだされば幸甚である。
(第一号、明治十四年三月十八日)
(『東洋自由新聞』 第一号 中江兆民 より )
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社説
われわれがこの新聞を発行するのは、まさに、日本国三千五百万の兄弟とともに、向上の真理を探究して、国家にむくいようと欲するものである。つまり、普通の新聞に書かれている事件に先立って、順次われわれの見解を述べ、ひろくその可否を天下の君子に問おうとする。そのおもなものをあげておくと、つぎの数項目につきる。すなわち、自由の説、君民共治の説、地方分権の説、外交平和の説、そして教育、経済、法律、貿易、兵制である。
もちろんこれは、一朝一夕で論じつくすことはできない。まさしく、日月をかけてはじめて、どうにか論じつくすことができるものである。
いま、第一号を発刊するにあたり、まず、われわれの社名の「義」とするところの、「自由の説」をのべて、出発点としたい。
自由の主旨には二種類ある。つまり、リベルテ・モラル〔すなわち、心神の自由〕と、リベルテ・ポリチック〔すなわち、行為(政治)の自由〕である。まずはじめに、自由の本来の意味を説いてから、二つの自由の区別におよぼう。
「リベルテ」ということばは、訳すと「自主」、「自由」、「不羈独立」などという。しかし、その意義の深遠さにいたっては、こうした数個のことばで尽くしうるところではない。というのは、昔ローマにおいて、政権をもっている士君子、すなわち、いわゆる良家の人のことを、こう呼んでいたのであり、彼らは自分が天然にえた本性にしたがって、真を保つことのできるものだけが、自由の名に値すると考えたのである。その意味は、つまるところ、彼らの束縛や規制を受けている奴隷や捕虜のたぐいとは、区別しようと欲していたのである。
第一のリベルテ・モラルとは、わが精神や思想が、けっして他のものの束縛をうけず、完全に発達しきって、あますところがないのをいうのである。古人がいったように、道義に合致した、いわゆる「浩然の一気」(『孟子』)がこれである。内をかえりみてもやましくなく、反省してもはずかしくないのがこれである。
いいかえれば、天地に俯仰してはじることがないことであり、外にたいしては、政府や教門によって妨害されず、活発自在で、走りうるところは、どこまでも走り、自由に突進し、ますます進んですこしも撓まないものである。だから、「心思の自由」は、われわれが本来もっている基盤であり、第二項目の「行為の自由」からはじまって、その他すべて自由のたぐいは、みなここに基礎をもつのである。
およそ、人生の行為、福祉、学芸は、みなここから出発している。つまり、われわれが今もっとも留意し、養いそだてるべきもの、これより尊いものはない。
第二のリベルテ・ポリチックは、「行為の自由」であり、人びとがおのずからしようとするもの、また他人とともにするものは、みなこの中に入る。種類をあげよう。すなわち、「一身の自由」、「思想の自由」、「言論の自由」、「集会の自由」、「出版の自由」、「結社の自由」、「民事の自由」、「政治に参加する自由」である。
心思の自由は、天地を通じ古今を通じて、すこしたりとも増減がないものである。しかし、文化や事物が発達しているかどうかと、人の賢愚によって、その範囲はたしかに少しの差異もないというわけにはゆかなかった。そして、行為の自由にいたっては、気候の寒熱や、土壌が豊かであるか否か、風俗の善悪などによって、差異はさらにはなはだしかった。ああ、心思の自由にしても、行為の自由にしても、どうして少しでも差があってよいだろうか。しかし、古から今におよぶまで、差異をなくすことができなかった。これこそ、われわれが、まさしく悲憤慷慨する理由であり、この新聞がつくられた理由である。
自由というものは、草木にたとえれば、養分のようなものだ。だから、人の干渉にたより、人の束縛をうける人民は、温室育ての花や盆栽の木が、天性の香りや色を放ち、本来じゅうぶんの枝葉を繁茂発達させることができず、遠くからみればきれいなようだが、近くに行って見るときは、生気は全然なく、とても観賞に値しないようなものだ。それに反して、山花野草においてはまったく異なり、香りは馥郁として、その色はあおく深い。ひとひらの花びら、一枚の葉といえども、みなことごとく霊気に満ちて、いきいきしていないものはない。
自由が人にとって尊ぶべきものであるのは、つまりこのようなものである。
およそこの二つの自由は、現在、文明がもっとも発達していると自称する欧米諸国において、これを保持している程度も、はたしてどの層にまで至っているだろうか。さらに、その諸国の中で、どの国がもっとも程度が高く、どの国がもっとも程度が低いか。また、わが国をこれらの国とくらべるとき、そのどの国にあてはめうるだろうか。これこそ、われわれがまさしく毎号つづけて論述しようと欲するところである。古人はいった。「任重くして道遠し」(『曽子』)と。また彼はいった。「斃れてのち已む」と。われわれの使命も、またはなはだ重いではないか。「斃れてのち已む」の句にいたっては、もちろんわれわれの甘受するところとはいうものの、おそろしいのは、真理がついに得られなくなってしまうことである。
切にたのみたいのは、世の博覧強記の君子が教えをおしまず、われわれの足りないところを補ってくださり、もって世に益することができれば幸いである。
(第一号、明治十四年三月十八日)
(『東洋自由新聞』 社説 中江兆民 より )
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