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寺田寅彦の随筆

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科学だけでは世の中は面白くない


科学はいたちごっこだ。


二十世紀型典型

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物理学と感覚 2

 哲学者の中にはわれわれが普通外界の事物と称するものの客観的の実在を疑う者が多数あるようであるが、われわれ科学者としてはそこまでは疑わない事にする。世界の人間が全滅しても天然の事象はそのままに存在すると仮定する。これがすべての物理的科学の基礎となる第一の出発点であるからである。この意味ですべての科学者は幼稚(ナイヴ)な実在派(リアリスト)である。科学者でも外界の実在を疑おうと思えば疑われぬ事はないが多くの物理学者の立場は、これを疑うよりは、一種の公理として仮定し承認してしまうほうがいわゆる科学を成立させる筋道が簡単になる。元来何物かの仮定なしに学が成立し難いものとすればここに第一の仮定を置くのが便宜であるというまでである。絶対とか窮極の真理とかいうものの存在を信じてそれを得ようと努力する人はこの点で第一に科学というものに失望しなければならない。科学者はなんらの弁証なしに吾人と独立な外界の存在を仮定してしまう。ただし必ずしもこれを信じる必要はない、科学者が個人としてこれ以上の点に立ち入って考える事は少しもさしつかえないが、ただその人の科学者としての仕事はこれを仮定した上で始まるのである。もっともマッハ(エルンスト・マッハ)のごときは感覚以外に実在はないと論じているが、彼のいわゆる感覚の世界は吾人のいう外界の別名と考えればここに述べる所とはあえて矛盾しない。
 外界の事物の存在を吾人が感ずるのは前述べたとおり直接に吾人の五感の助けによるものである。これらの官能が刺激されたために生ずる個々の知覚が記憶によって連絡されるとこれが一つの経験になる。このような経験が幾回も幾回も繰り返されている間にそこに漠然とした知識が生じて来る。この原始的な知識がさらに経験によってだんだんに吟味され取捨されて個人的一時的からだんだんに普遍的なものに進化して来るとこれが科学の基礎となる事実というものになるのである。
 しかるにあらゆる経験の第一の源となる人間の五感がどれほど鋭敏でまた確実であるかという事はぜひとも考えてみなければならぬ。
 
(『寺田寅彦随筆集』 第一巻 小宮豊隆編 より )

物理学と感覚 1

 人間がその周囲の自然界の事物に対する知識経験の基になる材料は、いずれも直接間接に吾人の五感を通じて供給されるものである。生まれつき盲目で視神経の能力を欠いた人間には色という言葉はなんらの意味を持たない、物体の性質から色という観念をぬき出して考える事がどうしてもできない。トルストイ(レフ・トルストイ)のおとぎ話に牛乳の白色という観念を盲者に理解させようとしてむだ骨折りをする話がある。雪のようだと言えばそんなに冷たいかとこたえ白うさぎのようだと言えばそんなに毛深い柔らかいのかと聞きかえした。
 それでもし生まれつき盲目でその上に聾(つんぼ)な人間があったら、その人の世界はただ触覚、嗅覚、味覚ならびに自分の筋肉の運動に連関して生ずる感覚のみの世界であって、われわれ普通な人間の時間や空間や物質に対する観念とはよほど違った観念を持っているに相違ない。もし世界じゅうの人間が残らず盲目で聾唖であったらどうであろうか。このような触覚ばかりの世界でもこのような人間には一種の知識経験が成立しそれがだんだんに発達し系統が立ってそして一種の物理的科学が成立しうる事は疑いない事であろう。しかしその物理学の内容はちょっと吾人の想像し難いようなものに相違ない。たとえば吾人の時間に対する観念の源でも実は吾人の視覚に負うところがはなはだ多い。日月星辰の運行昼夜の区別とかいうものが視覚の欠けた人間には到底時間の経過を感じさせる材料にはなるまい。それでも寒暑の往来によって昼夜季節の変化を知る事はある程度までできる。振り子のごとき週期的の運動に対する触感と自分の脈搏とを比較して振動の等時性というような事を考え時計を組み立てる事は可能であるかもしれぬ。しかし自分の手足の届くだけの狭い空間以外の世界に起こっている現象を自分の時計にたよって観測する事はよほど困難である。このような人には時や空間はただ自分の周囲、たとえば方六尺の内に限られた、そして自分といっしょに付随して歩いて行くもののようにしか考えられぬのかもしれぬ。この人にとっては自分の触覚と肉感があらゆる実在で、自分の存在に無関係な外界の実在を仮定する事はわれわれほど容易でないかもしれない。象と盲者のたとえ話は実によくこの点に触れている。
 これはただ極端な一例をあげたに過ぎないが、この仮想的の人間の世界と吾人の世界とを比較してもわかるように、吾人のいわゆる世界の事物は、われわれと同様な人間の見た事物であって、それがその事物の全体であるかどうか少しもわからぬ。
 
(『物理学と感覚』 小宮豊隆編 より )

科学者と芸術家 8

 芸術家科学者はその芸術科学に対する愛着のあまりに深い結果としてしばしば互いに共有な弱点を持っている。その一つはすなわち偏狭という事である。もちろんまれには卑しい物質的の利害から起こる事もないではあるまいが、それらは別問題として、科学者芸術家に多い病は、他を容れる度量に乏しくて互いに苦々しく相排することである。これも両者の心理に共通なもののある事を示す一例と見なされる。畢竟偏狭媢嫉は執着の半面であるとすれば、これは芸術と科学の愛がいかに人の心の奥底に深く食い入る性質のものであるかを示すかもしれない。ちょっと考えると、少なくも科学者のほうは、学問の性質上きわめて博愛的で公平なものでありそうなのに事実は必ずしもそうでないのは謎理的(パラドクシカル)のようである。しかしよく考えてみると、科学者芸術家共に他の一面において本来一種の自己主義者たるべき素質を備えているべきもののように思われる。これは惜しむべきことであるかもしれないが、あるいはやみがたい自然の現象であるかもしれない。一面から見れば両者が往々この弱点を暴露してそれがために生ずる結果の利害を顧慮するいとまがないという事が少なくとも両者に共通な真剣な熱情を表明するのであるかもしれない。
 
 科学者と芸術家が別々の世界に働いていて、互いに無頓着であろうが、あるいは互いに相反目したとしたところが、それが別にたいした事でもないかもしれない。科学と芸術それぞれの発展に積極的な障害はあるまい。しかしこの二つの世界を離れた第三者の立場から見れば、この二つの階級は存外に近い肉親の間がらであるように思われて来るのである。
 
(大正五年一月、科学と文芸)
 
(『寺田寅彦随筆集』 第一巻 小宮豊隆編 より )

科学者と芸術家 7

 それで芸術家が神来的に得た感想を表わすために使用する色彩や筆触や和声や旋律や脚色や事件は言わば芸術家の論理解析のようなものであって、科学者の直感的に得た黙示を確立するための論理的解析はある意味において科学者の技巧(テクニック)とも見らるべきものであろう。
 もっともこのような直感的の傑作は科学者にとっては容易に期してできるものではない。それを得るまでは不断の忠実な努力が必要である。つとめて自然に接触して事実の細査に執着しなければならない。常人が見のがすような機微の現象に注意してまずその正しいスケッチを取るのが大切である。このようにして一見はなはだつまらぬような事象に没頭している間に突然大きな考えがひらめいて来る事もあるであろう。
 科学者の中にはただ忠実な個々のスケッチを作るのみをもって科学者本来の務めと考え、すべての総合的思索を一概に投機的とし排斥する人もあるかもしれない。また反対に零細のスケッチを無価値として軽侮する人もあるかもしれないが、科学というものの本来の目的が知識の系統化あるいは思考の節約にあるとすれば、まずこれらのスケッチを集めこれを基として大きな製作をまとめ渾然たる系統を立てるのが理想であろう。これと全く同じ事が芸術についても言われるであろうと信ずる。
 ある哲学者の著作の中に、小説戯曲は倫理的の実験(エキスペリメント)のようなものだという意味の事があった。実際たとえば理論物理学で常に使用さるるいわゆる思考実験(ゲダンケンエキスぺリメント)と称するものはある意味において全く物理学的の小説である。かつて何人も実験せずまた将来も実現する事のありそうもない抽象的な条件の下に行なわるべき現象の推移を、既知の方則から推定し、それからさらに他の方則に到達するような筋道は、あるいは小説以上に架空的なものと言われぬ事はない。ただ小説の場合には方則があまりに複雑であって演繹の結果が単義的(ユニーク)でなく、答解が幾通りでもあるに反して、理学の場合にはそれがただ一つだという点に著しい区別がある。それはとにかくとして小説家が架空の人物を描き出してそれら相互の間に起こる事件の発展推移を脚色している時の心の作用と、科学者が物質とエネルギーを抽象して来てその間に起こるべき現象の経路を演繹している時のそれとはよほど似たものであるように思われる。少なくもこの種の科学者は小説家を捕えて虚言者とののしる権利はあるまい。小説戯曲によっては現実に遠い神秘的あるいは夢幻的なものもあるが、しかしこれが文学的作品として成立するためにはやはり読者の胸裏におのずから存在する一種の方則を無視しないものでなければならない。これを無視したものがあればそれはつまり瘋癲病院の文学であろう。
 
(『寺田寅彦随筆集』 第一巻 小宮豊隆編 より )

科学者と芸術家 6

 しかしこのような問題に深入りするのはこの編の目的ではない。ただもう少し科学者と芸術家のコンジェニアル(同じ性質の)な方面を列挙してみたいと思う。
 
 観察力が科学者芸術家に必要な事はもちろんであるが、これと同じように想像力も両者に必要なものである。世には往々科学を誤解してただ論理と解析とで固め上げたもののように考えている人もあるがこれは決してそうではない。論理と解析ではその前提においてすでに包含されている以外の何物をも得られない事は明らかである。総合という事がなければ多くの科学はおそらく一歩も進む事は困難であろう。一見なんらの関係もないような事象の間に密接な連絡を見いだし、個々別々の事実を一つの系にまとめるような仕事には想像の力に待つ事ははなはだ多い。また科学者には直感が必要である。古来第一流の科学者が大きな発見をし、すぐれた理論を立てているのは、多くは最初直感的にその結果を見透した後に、それに達する論理的の経路を組み立てたものである。純粋に解析的と考えられる数学の部門においてすら、実際の発展は偉大な数学者の直感に基づく事が多いと言われている。この直感は芸術家のいわゆるインスピレーション(霊感)と類似のものであって、これに関する科学者の逸話なども少なくない。長い間考えていてどうしても解釈のつかなかった問題が、偶然の機会にほとんど電光のように一時にくまなくその究極を示現する。その光で一度目標を認めた後には、ただそれがだれにでも認め得られるような論理的あるいは実験的の経路を開墾するまでである。もっとも中には直感的に認めた結果が誤謬である場合もしばしばあるが、とにかくこれらの場合における科学者の心の作用は芸術家が神来の感興を得た時のと共通な点が少なくないであろう。ある科学者はかくのごとき場合にあまりはなはだしく興奮してしばらく心の沈静するまでは筆を取る事さえできなかったという話である。アルキメーデス(アルキメデス)が裸体で風呂桶から飛び出したのも有名な話である。
 
(『寺田寅彦随筆集』 第一集 小宮豊隆編 より )

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