平成17年4月6日から平成23年9月6日までのブログ

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悠塾の心得4

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君子の心とは?


人の道は踏み外してから、正しかったとわかる。


『論語』がフランスで翻訳されて、啓蒙思想を生んだ。

君子になろうと意志をもつほど、仁は遠ざかる。


捨て去っても、そこに残っているものが徳である。

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君子に九思あり。

 孔子曰く、君子に九思あり。
 
視ることは明を思ひ、聴くことは聡を思ひ、色は温を思ひ、貌は恭を思ひ、言は忠を思ひ、事は敬を思ひ、疑はしきは問ひを思ひ、忿りには難を思ひ、得るを見ては義を思ふ。
 
(『論語』 季氏第十六 より )
 
 君子の思うところは大略九つある。
 
視ることは隠れる所がなくて見ない所のないことを思い、聴くことは塞がれる所がなくて聞かない所のないことを思い、顔色は温和であることを思い、容貌は恭倹であることを思い、言葉は心と口と一致させよう(嘘を言わない)と思い、事を行うには心を専一にして怠らないことを思い、疑わしいことは問うて明らかにしようと思い、怒る時は患難を招くことを思ってこれを抑え、得べきもののあるのを見て取るべきか取るべからざるかの義理を思っていやしくも取らないようにする。
 
 人に慎み思う学を示したのである。
 
 まだ従容として道に中るという程にならなくても(真に受けていなくても)、時時刻刻自ら省察しないことがなければ、道理の己の心に存しない者があってもその量は少ない(ほとんどは道理が己の心にわかっている)。
 これを誠を思うというのである。                 (謝良佐)
                                    

君子に三戒あり。

 孔子曰く、君子に三戒あり。
 
少き時は、血気未だ定まらず。之を戒むること色にあり。
 
其の壮なるに及んでは、血気方に剛なり。之を戒むること闘ふに在り。
 
其の老ゆるに及んでは、血気既に衰ふ。之を戒むること得るに在り。
 
(『論語』 季氏第十六 より )
 
 君子には時に従って、あらかじめ戒めて犯さないようにすることが三つある。
 
少年の時は血気がまだ定まらないので、欲が動けば溺れ易いから、女色を戒めて情慾に陥らないようにする。
 
 壮年になると血気が盛んに強くて人と衝突し易いから、闘争を戒めて怒りを我慢するようにする。
 
 老年になると血気が衰えてしまって肉体上の欲望はなく、一身一家の安全幸福を思う心が重くなるから、財貨を貪ることを戒めて、得るを見ては義を思うようにする。
 
 君子が少壮老の時に従って欲を制する工夫を示したものである。
 
 聖人が衆人と同じ所は血気である。衆人と異なる所は志気である。
血気は衰える時があるが志気は衰える時がない。若い時定まらず壮にして剛く老いて衰えるのは血気である。色を戒め闘うを戒め得るを戒めるのは志気である。
 
 君子は志気を養うから血気のために動かされない。
 
故に年がいよいよ高くなって徳がいよいよ高いのである。
 
                                       (范祖禹)

巧言は徳を乱る。

 子曰く、巧言は徳を乱る。小を忍ばざれば則ち大謀を乱る。
 
(『論語』 衛霊公第十五 より )
 
 巧言は是を非とし、非を是とし、人をして信じ守る所を失わせる。
 
徳を乱るものである。姑息の恩愛にひかれたり血気の勇をふるったりすれば、
 
大事を成し遂げることはできない。これは大望を乱るものである。
 
 巧言・・・巧みに説いて是非を変乱するのである。
 小を忍ばず・・・忍は耐えること。「小を忍ばず」は婦人の仁、匹夫の勇のごときものだと朱子は言っている。
 
 言葉を聴き物議を諮る者のために発したのである。
 
 「巧言」の句は人に属し、「小を忍ばず」の句は己に属する。
 
 恩愛を授けるために釈放したにもかかわらずに、その後、証拠があるとかいって脅かすと、そこには信じるものがなくなってしまうので姑息なことだと言われても仕方がなくなる。まるで、謀略にはめ込んだみたいで居心地が悪い。
TRUST MEといって、失敗して、信頼を失い、友愛といって、そんなものは必要ないと言われて、だんだんと、善である言葉が使えないようになっていく。その先にあるのは、人間不信の争いの世界になっていく。政治というものは、正ということは何かということを導いていかねばならないので、その責任は重大なことである。そういう意味では、今の議員は失格と言わざるを得ない。個人主義の政治家の恐ろしいことは、自分たちが国家という社会全体に影響を与える立場にいるということを自覚しにくいことである。個人主義で家庭を築くことが難しいのと同様に、個人主義で社会を築いていくことも難しい。ましてや、国家と国家の間のことは、恐ろしいまでの人間の運命がかかっていることなので、そのことを考慮しないで、領土のことや主権のことを論じることはナンセンスなことである。大望というものは、世界平和のことである。
 
 
 

君子の過ちや。

 子貢曰く、君子の過ちや、日月の食の如し。
 
過つや人皆 之を見る。更むるや 人皆 之を仰ぐ。
 
(『論語』 子張第十九 より )
 
 子貢が言った。君子の過ちは、日蝕や月蝕のようである。
 
誤解しても飾ったり隠したりしないから、人が皆これを見る。
 
更正すると、誤解のない昔に戻って人が皆これを仰ぎ慕う。
 
あたかも日や月が日蝕や月蝕で一時欠けたり暗くなったりしても、またもとのよ
 
うに光輝を放って人が皆これを仰ぎ見るようである。
 
 君子の能く過ちを改めることを述べたのである。
 
「人皆之を見る」のは、君子はその過ちを文飾掩蔽しないからである。
 
日月の食は回って本に復ってその明を損することはない。
 
故に君子は過ちを改めるのに吝かでなく、徳がいよいよ光る。(張栻)
 
 君子であっても、間違えることはある。
 
弘法も筆のあやまり、河童の川流れ、猿も木から落ちる。
 
つまり、間違いは誰でもあることであり、それを飾ったり隠したりするから、ややこしいことになるのであって、隠そうとすればするほど、間違いは最悪の事態に陥ってしまうのである。日や月が欠けることは、当たり前のことであるから、普通に自然にしておけば、やがて欠けた日や月は光り輝く元の状態に戻っていくのである。
 

君子は争ふ所なし。

 子曰く、君子は争ふ所なし。
 
必ずや射か。揖譲して升り、下つて飲ましむ。
 
其の争ひや君子なり。
 
(『論語』 八佾第三 より )
 
 君子といわれるような人格の高い人は、人と争うことはない。もし争う場合があるとすれば、それは必ず弓を射る礼(スポーツ)を行なう時である。弓を射ようとする時には、射手が二人相並んで進み、三度礼をして後にお堂に上り、射てしまって後また礼をしてお堂から降り、外の組のみな降りるのを待つ。勝った者が負けた者に礼をしてお堂に上り、罰杯を取って負けた人に飲ませる。初めから終りまで礼にかけたことは一つもなく、その態度が常にゆったりとしておごりたかぶることがない。その争いはどこまでも君子である。
 
 弓を射る礼について、君子の礼儀正しいことをあらわしたのである。
 
 競技などの場合においても君子の争いでありたい。
 
 
 君子というものは、弓を射る競技くらいしか争うことはしないのだ。

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