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孔子曰く、予言ふこと無からんと欲す。子貢曰く、子如し言はずんば、則ち小子
何をか述べん。子曰く、天何をか言はんや。四時行はれ、百物生ず。天何をか
言はんや。
開巻明徳の話より、通計三十則。章を逐うて喃喃、敗闕少からず。箇の語に至りて一言以て之を尽す。是れ尼父の眼目なり。吾が瞿曇老亦曰く、一字不説と。五千軸、一言以て之を覆へば、二聖符節を合するが如し。蓋し無言の言、言焉より大なるは莫し。不説の説、説焉より妙なるは莫し。予又何をか言はんや。筆を停めて良久するのみ。何にが故ぞ、人無きに独語す。其の鄙なること鼠の如し。
参学 福島宗璘謹書
禅海一瀾巻の下 畢
(『禅海一瀾』 今北洪川著 より )
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今北洪川の禅海一瀾
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孔子曰く、憤を発し食を忘れ、老の将に至らんとするを知らず。
古人云く、「凡そ大道を学ばんと欲する者は、先づ須らく大憤志・大疑団・大信根 を具備すべきは、猶ほ鼎に三足有るがごとし。一を欠けば則ち達成せず」と。固に 然り。而して発憤を最も主と為す。発憤洪大なれば、悟る所も洪大なり。発憤浅小 なれば、悟る所も浅小なり。宣尼は発憤して食を忘れ、能仁は発憤して山に入り、 孟軻は断機に依りて発憤し、神光は発憤して臂を断つ。是れ皆な発憤の洪大なる 者なり。古来大道を担当するの英傑は発憤の一事を成さざる莫し。
抑々道は高なり峻なり。予が如き謭劣の輩の企て及ぶ所以の者に非ず。唯だ専 ら発憤の志を立つるを以て竟に志願を成就し以て平生を慶快するに至る。謹んで 博学高才の人に白す。若し吾が大教の誹駁せんと欲せば、須らく発憤して吾が禅 海に入り、先づ自己の本性を見得すべし。而して広く仏祖の書を読み、徧く其の理 を究め、然る後に間然す可き処有らば、唾して之を罵倒するも固に好し。若し未だ 嘗て其の境涯を踏まずして漫りに之を論ずれば、是れ盲評瞎論なり。吾総て取ら ず。昔宋の仁宗の朝、李覯なる者有り、欧陽修と韓愈の排仏を慕ふ。時に大儒と 称す。明教嵩を一見して後、意を仏書に留め、研究之を久しうし、乃ち喟然として嘆 じて曰く、「吾が輩の議論、尚ほ未だ一巻の般若心経にも及ばず。仏教豈に知り易 からんや」と。看よ真個境界を歴る底の人の論は幡然常情を超出すること是くの如 し。
(『禅海一瀾』 今北洪川 著 より )
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孟軻曰く、君子は引いて発せず。躍如たり。中道にして立つ。能者之に従ふ。
「大匠は拙工の為に縄墨を改廃せず。羿は拙者の為に其の彀率を変ぜず。」
古人学者を鍛錬するの術は皆是くの如し。山野亦常に之を用ふ。未だ敢て学者の 為に辞色を貸さず。只だ学者之を自得せんと欲するのみ。躍如とは、功夫純熟な れば、則ち自得の妙理機に触れ縁に逢うて躍如として現前するの時節を謂ふ。是
に於てか、始めて他の為に祕を発せば、他之を得て徹底せず。徹底せざれば則ち 痛快ならず。半信半疑、却つて師伝を軽忽するに至る。若し又、其の時節を待ちて 発せば、則ち飢人の食を得るが如く、大旱の雨を得るが如し。珍重慶快、拳拳失は ず、竟に其の大志を成就するに至る。人に師たるの道、慎まざるべ可けんや。孔子
一隅を示すの意、亦推して知るべきなり。
(『禅海一瀾』 今北洪川 著 より )
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中庸に曰く、道は須臾も離るべからず。離る可きは道に非ず。是の故に君子は、其の睹ざる所を戒慎し、其の聞かざる所を恐懼す。隠れたるより見らはるるは莫く、微かなるより顕かなるは莫し。故に君子は其の独を慎む。
孔門三千の徒、才明雋芸(芸にすぐれる)の者、七十二人。一陽のあたたむる 所、一雨の霑(うるおい)する所、各々自ら得る所有り。唯だ、大道の正統を得る者 は、顔曾二人のみ。顔回は蚤世す。故に曾参独り其の宗を得たり。孔伋、業を曾参 に受くるに及びて、此の一著を体究し、実学功夫、力を用ふる年有り。竟に孔門の 玄旨に通徹し、始めて這の語を唱出す。此の時孔子を去る梢〃遠し。乃ち其の 愈々久しくして愈々其の宗を失はんことを憂へ、遂に『中庸』を著し以て後学に授 く。其の要は此の数言に在り。数言の眼目は「慎独」の二字に在り。蓋し、古人、後 学の入り難きを憐んで、諄諄(くどい・ねんごろ)是の如し。後世の儒士、徒らに聖 賢の語を弁釈することを務め、未だ嘗て聖賢の心を明覈(あきらかにする)すること を務めず。故に孔門伝授の心法は堕して土の如し。痛む可し、悲しむ可し。学者苟 くも孔子の徒為らんと欲せば、先づ須らく此の語に依りて、強て精彩を著け、己に 反りて観照すべし。観照し去り、歳月の久しきを積み、念念退かずんば、則ち忽然 として妙訣に契当せん。那時、覚えず知らず、掌を拍つて大笑し去る在らん。是に 於てか、平日、山野が所謂、不玄の玄、不妙の妙、果して自得する有らん。蓋し入 徳の要門を開くに於て、此の外、更に撥転す可き者無し。
(『禅海一瀾』 今北洪川 著 より )
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或るひと問ふ。道は分れて神儒仏老と為る。今、神を学ばば如何。余曰く、是は則ち是なり。恐らくは神見浄見の障礙を被らん。云く、儒を学ばば如何。曰く、是は則ち是なり。恐らくは文字礼則の障礙を被らん。云く、仏を学ばば如何。曰く、是は則ち是なり。恐らくは仏見法見の障礙を被らん。云く、老を学ばば如何。曰く、是は則ち是なり。恐らくは冲見虚見の障礙を被らんと。其の人ぼう然として問ふことを知らず。余曰く、唯だ道を学べ。道に別名無し、神儒仏老は唯だ是れ箇の道。恰も一太陽の上下四維を照臨し、其の光の到らざる所無きが如し。只だ学者眼に知見学習の雲霧有り。或は儒見に落在し、或は仏見に落在す。是れ大道に同異有るに非ず、眼見に障礙有るを以てなり。故に神家者流其の障礙を払尽す、之を天原に止ると謂ふ。儒家者流其の障礙を払尽す、之を明徳を明かにすと謂ふ。仏家者流其の障礙を払尽す、之を見性成仏と謂ふ。老家者流其の障礙を払尽す、之を衆妙の門を得と謂ふと。問者黙して退く。今諸々の仁者の為に言はん。若し神を学ばんと欲せば、先づ、御中主以前に向つて求めよ。儒を学ばんと欲せば、先づ、三皇以前に向つて求めよ。仏を学ばんと欲せば、先づ、威音王以前に向つて求めよ。老を求めんと欲せば、先づ、黄帝以前に向つて求めよ。然らば則ち道に竇逕(水の通うあなとみち)莫く、見に異端莫し、神に値はば神受用し。儒に値はば儒受用し、仏に値はば、仏受用し、随処に主と為りて更に障礙無し。是れ吾が教外別伝の玄旨にして、即ち孔子一貫の要訣なり。道を学ぶ者請ふ此より始めよ。
(『禅海一瀾』 今北洪川 より )
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