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魯山人の書論

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純粋な書家になりきれなかった魯山人の苦悩

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 軍隊の教練のように、兵卒が百人が百人、お一二というわけで、足を揃えて歩むが如き習い方をする書家の書道は、個々について見ますとき、誠に不見識で、是非とも百人が百人違った結果の字を書かなければならぬと思います。自分の本当の了簡で、自分の嗜好で、自分の見識で習いますときに、たとえ先生が一人であっても、習う者が百人おりましたら、百人とも違った字ができるはずであります。それを、先生が一つの手本として書いたのを渡す。あるいは印刷したのを渡しまして、みなに教えるというようなことは、全く先生のご都合であって、そういう教え方は全くまちがっているし、それを習うということも、非常に不見識だと思うのであります。
 そこで、昔からたくさん良書、能書が残っておりますから、その中でもっとも自分に適するもの、自分の個性に一番よく合うもの、自分の性分として、こういう字が好きだとか、こういう字が嫌いだとかいうようなわがままを敢えていたしまして、自分の好き気儘な習い方をするのがよいと思います。習いますについては、気儘な手本の選択をするのがよいと思う。それでも、まるきり問題にならないような字を問題にいたしましては、これはもとより誤りでありますが、古来やかましくいわれておりますところの書には、そんなにまちがった例はないようでございますから、ぎこちない角張った字が好きな人には、その種の良い字を習えばよろしい。
 例えば、顔魯公(顔真卿)の楷書のようなものも、一見ぎこちないようでありますが、非常に自由な書き方で、かえって明代あたりの祝允明草書などよりも自由に楽に書いてある。全く祝枝山(允明)の草書よりも顔魯公の楷書の方が、ずっと自由に書けているというようなこともありますから、そういう字を習われるのも宜しい。また
欧陽詢のようなスタイルのよい貴公子ぶりの楷書を習われるのもよいと思います。どちらが別に悪いということではなく、皆相応なものでありますから、そういうふうに考えられて習われたらよかろうと思うのであります。
 
(『魯山人書論』 北大路魯山人 平野雅章編 より )

習書要訣 中国の書

 書のことになりますと、書に関係のある方が百人集まるとして、九十九人までが、どうも中国の書は上手だというようであります。また、習書した経験ある方に限って、なおさら、中国の書をそう感ずるのであります。書は断然中国に限るというようなことを、これまた、多くの人が皆独り決めする習慣がありますが、私の見るところではそうではない。中国の書は例えば容貌風采のよい人間のようなもので、その人間は果してどれ位偉い人か偉くないかは別として、畢竟、容貌風采がよくて出でたちがよいと、とかく買い被る。そういうようなふうが中国の書なるものにあるのであります。中国の書は大体において形がよろしゅうございます。そうして、あるタイプを努めて習って仕上げておるのであります。
 例えば、三角とか四角とか円とかきまった形が如何にも整っている。それは練習の結果なのであります。形が整って、容貌風采がよくなると、人間の場合でも、一見買い被るように、その書もまた買い被り易いのであります。形が整っておって、それがよいということになるのでありましたら、手腕的練習さえすれば、特に不器用な人でない限りは書けるに決まっています。例えば床屋の小僧などが三年もすると、どんな頭の刈り方でも覚えてしまう。あるいは大工の小僧でも三年経つと板が相当に削れる。それと同じに字だって、三年もすれば一通り体裁よく書けるのは当り前のことであります。そんな訳で形が整うばかりが尊いのでありますならば、それは本当にやさしいことだと私は思うのです。ところが、ただ形ばかり風采容貌ばかりが整ったって、必ず人がみな賞讃してくれぬように、書風書体ばかりが体裁よくできたからといって、別に誇るに足らぬと思います。また、そういうことは古くからいわれておりまして、風貌の一見して醜い人でも、人間として、非常に尊ばれている人が昔から沢山ありますのは、みなさん、すでにご承知だろうと思います。
 
(『魯山人書論』 北大路魯山人 平野雅章編 より )
 普通習書と申しますと、ご承知の通り筆をもって習うことが主なんでございますが、実は筆をもって習うということもさることながら、書を分ろう、書というものはどういう「質」のものであるかということが分りたい、分らなくてはならない、そういう「書性」とでもいうことをお互いに分っていこうということが主でありまして、書く方が第二なんであります。私の考えでは、結局、分らなければ書いたって仕方がない。分らないで書いているということは、盲目的に筆を振っていることであるから、その結果が良いのか、はっきり自分も分りはしないというようなことに陥りやしないかというのであります。
 それで、私が今までに経験しましたところによりますと、これから申しますようなことは、どうも我々の先輩がいっておいてくれなかったことで、それからまた書物にも余り書いてないように存ずるのでございます。書の上手下手は、いろいろな形容詞をもって、ことに中国では巧みな形容詞を使って説明してありますが、いずれも抽象的でありまして、我々を心の底から動かすというわけには行かない。それで、我々が知る範囲の人たちをもって私が経験しましたところによりますと、訳が分らずに書を恐がるとか、書けないことを無闇に恥ずかしがるというようなことでございます。これは畢竟するに、書というものがどういうものであるか、という点をよく把握しておらないために、恥ずかしい、恐いという感じがするのであると思うのであります。
 例えば一国の大臣というような人たちになりますと、いずれもが何事にも一見識を有し、物事に恐れない人が多いようでありますが、それでも一度字を書いていただくというようなことになりますと、俺は字は全く閉口だ、書を書かされては叶わないといって固辞される。あるいはぽっと顔を赤くされるというようなことも見受けるのでありますが、それはどういうことであるか、書が下手だって恥になることはないはずである。下手というのは一体なんのことか、下手だって別に恥ずかしいことではないじゃないか、生まれつき鼻が高い人もあるが低い人もある。低いからといって別に恥ずかしいことはないではないか。それは生まれつきだから仕方がない。鼻の高低は必ずしも人相の高下を左右するものではない、というような訳で、別に書が下手だからといっても、それは習う縁がなかったから習わなかったまでで仕方のない話である。また、書道を理解する機縁がなかったので、理解するに至らなかったから仕方がないのであります。また、習っておるけれども普通にいうところの上手になれないこともある。上手ということは一体どういうことだかはっきり分らずに、ただ下手だから恥ずかしい、書けないから恐い、従って無意味に頭を掻くというようなことになるのでありますが、この点をよく呑み込んで分っていないと、それこそ恥ずかしいことになって、常に不愉快だと思うのであります。
 
(『魯山人書論』 北大路魯山人 平野雅章編 より )

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