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リシヱルリー〔人名〕(リシュリュー Armand Jean du Plessis,duc de Richelieu 1585-1642)は千六百年間の人にして、仏郎西の宰相たり。その説に、国の衰微に趣く徴候を挙ぐ。条目左(下)の如し。
一、運上(江戸時代、各種の営業に課した税)を多分に取立つること。
一、しめ売商売(江戸時代の 商行為 で、品物を買い占めて供給量を制限し、高値を設定して売り出すこと)をなすこと。
問屋の如きものにして他商を権束(権利を束縛)することをいう。
但し穀物のしめ売商売、最も害ありとす。
一、交易、工作および農業を励まさぬこと。
一、運上を取り立つるに雑費を多くかくること。
一、冗官(むだな官職・役人)の多きこと。
一、国費の多きこと。
一、裁判の埒あかぬこと、ならびに不相当の取扱いをすること。
一、怠惰にして勉強せざること。
一、躾(しつけ)方乱れて守りなきこと。
一、しばしば貨幣を変更すること。
一、しばしば戦争をなすこと。
一、政治の勝手次第なること。
一、知見を弘むるを卑しみ忌嫌うこと。
一、仕損いをしばしばすること。
右(上)等の類〔杉亨二訳〕
(『解難録』 三 「邦国衰微徴候」訳 勝海舟 より )
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勝海舟の氷川清話
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宮本武蔵という人は、大層な人物であったらしい。
剣法に熟達しておったことは、もちろんの話だが、それのみならず、書画にも堪能であったとみえて、書いたものの中に神品ともいうべきものがたくさんある。この人は、仇があったので、初めは決して膝から両刀を離さなかったが、一旦豁然として大悟するところがあって、人間は、決して他人に殺されるものでない、という信念ができ、それからというものは、まるでこれまでの警戒を解いて、いつも丸腰でいたそうだ。
ところが或る時、武蔵が例のとおり無腰(まるごし)で、庭先の涼み台に腰をかけて、団扇(うちわ)であおぎながら、余念もなく夏の夜の景色にみとれていたのを、一人の弟子が、先生を試そうと思って、いきなり短刀を抜いて涼み台の上へ飛び上った。武蔵は「 アッ 」といってたちまち飛びのくと同時に、涼み台にしいてあった筵(むしろ)の端をつかまえて引っ張った。すると、そのはずみに、弟子は涼み台からまっさかさまに倒れ落ちたのを、見向きもせずに平然として、「 何をするか 」と一言いったばかりであったそうだ。
人間もこの極意に達したら、どんな場合に出会うても大丈夫なものさ。
(『氷川清話』 古今の人物論 勝海舟・言 吉本襄・編 より )
本当に強い人間は、武器すら持たないものだ。
戦争を鼓舞するような人間は、真先に戦場に赴かずに、他人を戦場に駆り立てるだけの弱虫であろう。戦争を鼓舞するような女・子供はたちが悪い。
それは、自分が戦場に行くことを前提としていないからだ。
そういう人物には、敬礼して、「 いってらっしゃいませ 」とのみ、
言うだけだ。
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維新の頃には、妻子までもおれに不平だったョ。広い天下におれに賛成するものは一人もなかったけれども〔山岡(山岡鉄舟)や一翁(大久保一翁)には、後から少しわかったようであったが〕おれは常に世の中には道というものがあると思って、楽しんでいた。また一事を断行している中途で、おれが死んだら、たれかおれに代るものがあるかということも、随分心配ではあったけれども、そんなことは一切かまわず、おれはただ行うべきことを行おうと大決心をして、自分で自分を殺すようなことさえなければ、それでよいと確信していたのサ。
おれなどは、生来人がわるいから(謙遜・世間にまみれているから悪くなるということ)、ちゃんと世間の相場を踏んでいるョ。上った相場も、いつか下る時があるし、下った相場も、いつかは上る時があるものサ。その上り下りの時間も、長くて十年はかからないョ。それだから、自分の相場が下落したとみたら、じっと屈んでいれば、しばらくすると、また上ってくるものだ。大奸物大逆人の勝麟太郎も、今では伯爵勝安芳様だからノー。しかし、今はこのとおりいばっていても、また、しばらくすると耄碌(もうろく)してしまって、唾の一つもはきかけてくれる人もないようになるだろうョ。世間の相場は、まあこんなものサ。その上り下り十年間の辛抱ができる人は、すなわち大豪傑だ。おれなども現にその一人だョ。
おれはずるい奴だろう。横着だろう。しかしそう急いでも仕方がないから、寝ころんで待つが第一サ。
西洋人などの辛抱強くて気長いには感心するョ。
(『氷川清話』 立身の数々を語る 吉本襄・編 より )
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自分の手柄を陳(の)べるようでおかしいが、おれが政権を奉還して、江戸城を引き払うように主張したのは、いわゆる国家主義から割り出したものサ。三百年来の根柢があるからといったところが、時勢が許さなかったらどうなるものか。かつまた都府というものは、天下の共有物であって、決して一個人の私有物ではない、江戸城引払いの事については、おれにこの論拠があるものだから、誰が何と言ったって少しもかまわなかったのさ。各藩の佐幕論者も、始めは一向時勢も何も考えずに、むやみに騒ぎまわったが、後には追々おれの精神を呑み込んで、おれに同意を表するものもでき、また江戸城引渡しに骨を折るものも現れてきたョ。しかしこの佐幕論者とても、その精神は実に犯すべからざる武士道から出たのであるから、申し分もない立派なものサ。何でも時勢を洞察して、機先を制することも必要だが、それよりも、人は精神が第一だョ。
(『氷川清話』 立身の数々を語る 吉本襄・編 より )
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おれが海舟という号をつけたのは、象山(佐久間象山)の書いた「海舟書屋」(扁額「海舟書屋」 佐久間象山筆)という額がよくできていたから、それで思いついたのだ。しかし海舟とは、もと誰の号だか知らないのだ。安芳(やすよし)というのは、安房守の安房(あわ)と同音だから改めたのョ。実名は、義邦(よしくに)だ。詩は、壮年の時に、杉浦梅潭(兵庫頭勝静)に習い、歌は、松平上総介(主税助忠敏。講武所師範役)に習い、書は、伯父の男谷(彦四郎・男谷 燕斎)にならったこともあるが、手習などに、骨を折る馬鹿があるものか。
おれが子供の時には、非常に貧乏で、或る年の暮などには、どこにも松飾りの用意などしているのに、おれの家では、餅をつく銭がなかった。ところが本所の親族のもとから、餅をやるから取りに来い、と言ってよこしたので、おれはそれを貰いに行って、風呂敷に包んで背負うて家に帰る途中で、ちょうど両国橋の上であったが、どうしたはずみか、風呂敷がたちまち破れて、せっかく貰った餅は、みんな地上に落ち散ってしまった。ところがその時は、もはや日は暮れているのに、今のような街灯はなし、道は真暗がりで、それを拾おうにも拾うことができなかった。もっとも二つ三つは拾ったが、あまりいまいましかったものだから、これも橋の上から川の中へ投げ込んで、帰って来たことがあったっけ。
妻を娶った後もやはり貧乏で、一両二分出して日蔭町で買った一筋の帯を、三年の間、妻に締めさせたこともあったよ。この頃は、おれは寒中でも稽古着と袴ばかりで、寒いなどとは決して言わなかったよ。米もむろん小買いさ。それに親は、隠居して腰抜けであったから、実に困難したが、三十歳頃から少しは楽になったよ。
かつて親父が、水野(忠邦・水野忠邦)の為に罰せられて、同役のものへ御預けになった時には、おれの家をわずか四両二分で売払ったよ。それでも道具屋は、「お武家様だからこれだけに買うのだ」などと、恩がましく言ったが、随分ひどいではないか。その同役の家というのは、たった二間だったが、その狭い所で同居したこともあったよ。その後立身して千石になった時にはよかったが、それが間もなく御免になった時などは、妻が非常に困ったよ。元来おれの家には、その頃から諸方の浪人がたくさん食客にいたのだからのー。それゆえ妻は、始終人に向って、「宿では今度は長く務めていますように」などと言っていたよ。
(『氷川清話』 立身の数々を語る 吉本襄・編 より )
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