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勝先生(勝海舟)は、必ずしも哲学者にあらず、しかも哲学者たるの頭脳あり。必ずしも経世家にあらず、しかも経世家たるの事業あり。必ずしも君子にあらず、詩人にあらず、しかも君子たり詩人たるの性格と襟懐(心の中の意)とあり。旧幕府の名士たりしと同時に、明治の逸民(隠者同様の暮らしをしている人)たり。眼の人たりしと同時に、手の人たり。而して先生の世に在るや、必ずしも大政に参与せずして、政治家の為にその方針を指示し、必ずしも実務に当らずして、実業家の為に、その正路を示し、必ずしも文芸に長ずるにあらずして、文学家の為に説き、必ずしも宗教に通ずるにあらずして、宗教家の為に喩し、必ずしも教育に関せざる者の如くにして、青年師弟の為に訓戒し、国民は社会の木鐸(社会の指導者)としてこれを仰ぎ、知らず識らざるの間に、先生の感化を蒙りたりき。これ実に先生が、一世の達人たる所以にして、国民が今日に至るまで、その遺徳を追懐して止まざる所以なり。
先生は、氷の如き頭脳に、火の如き感情を有し、炬(かがり火)の如き眼光(何でも見通す眼)に、海の如き度量を有したり。而してその意志は堅実に、その智慮は明達に、その精神は正大に、大事に糊塗(一時しのぎをすること)せず、小事も滲漏(にじみもらすこと)せず。その言う所は行う所にして、行う所はその言う所なり。故に先生の言、時ありて熱罵となり、冷嘲となり、危言となり、痛語となり、政治に、経済に、軍事に、宗教に、文学に、社会に、一切の時事問題にして、先生胸底の琴線(心緒)に触るる時は、一種警醒的教訓(迷いをさまさせる教え)となりて、社会の隅より隅に反響せざるはなし。その故何ぞや。先生の言論は、すべてこれ至誠惻怛(あわれみいたむこと)熱血の迸る所にして、真知を局外に求め、禅機を手中に弄する者あればなり。予がさきに『氷川清話』(明治三十年十一月〜明治三十一年十一月)を撰刊したるは、先生が社会的教訓を紹介せんが為にして、今回その正篇、続編、及び続々編を合冊として、これを世に問うに至りたるもまた已むを得ざるなり。
顧うに、予の始めて該書の刊行を先生に乞いしや、先生懇ろに語りて曰く、「損をしてはならぬから、止めた方が宜かろう」と。また当時先生が枢密院に於て、東久世伯(東久世通禧)、尾崎男(尾崎三良)に会せし時にも、予が為に心配する旨を洩されたりと言う。しかるに、この書一たび世に出づるや、読書社会のこれを歓迎する、あたかも大旱(大ひでり)の雲霓(くもとにじ)に於けるが如く、初版即日に尽き、再版三版もまた旬日を出でずして尽き、かくて版を重ぬること十有余版に達し、次いで続編、続々編も、また同一の勢いを以て、出版界に独行闊歩したりし者は、人心渇望の機に由ると云うと雖も、先生の人物、性格、事業、社会の中心たり、一代の木鐸たるにあらざるよりは、いずくんぞよくここに至らんや。而して先生がかつて予の為に心配せられしは、全く一片の婆心たるに過ぎざりしなり。
先生逝きしよりここに四年、社会の風紀ますます頽敗を告げ、人心茫洋として帰する所を知らず。ここに於いてか、天下先生の風采徳容を追懐して、その片言隻語を珍重し、本書を読まんとする者、いよいよ多きを加うるあり。しかるに、毎編原版ようやく摩滅し、江湖の希望に応ずること能はず。よりて今著、三編を合して、一部の書となし、さらに全躰に改訂を加え、その談話の如きは、性質によりてこれを類別し、かつ原版外の清話数十則を増加し、以て先生に私淑せんと欲する有志の士に頒つこととなしぬ。先生在天の霊にして知るあらば、果して贅挙となし給うや否や。
嗚呼、先生は大人なり。哲人なり。君子なり。その事業必ずしも大ならずと雖も、その徳は盛んに、その教えは長し。しかもその正気凛然、天地の間に磅礴(ほうはく・広がりはびこるさま)たるに至っては、千載朽ちず、永く我が国民の教訓となるや必せり。これ予が本書を選刊してこれを公にせし所以なり。
(明治三十五年十一月)
(『氷川清話』 吉本襄・編 より )
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勝海舟の氷川清話
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