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福澤諭吉の学問之勧

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『大学』の要は、誠意のみ。


智を立てなければ角も立たず、情に棹をささねば流されることもなく、意地を通さなければ窮屈でもない。



自意識過剰な福澤諭吉

今更、欧米から学ぶことはあるだろうか?

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 第二 人の性は群居を好み決して独歩孤立するを得ず。夫婦親子にては未だこの性情を満足せしむるに足らず、必ずしも広く他人に交わり、その交わり愈々広ければ一身の幸福愈々大なるを覚ゆるものにて、即ちこれ人間交際の起る由縁なり。既に世間に居てその交際中の一人となれば、また随ってその義務なかるべからず。凡そ世に学問といい工業といい政治といい法律というも、皆人間交際のためにするものにて、人間の交際あらざれば何れも不用のものたるべし。政府何の由縁をもって法律を設くるや、悪人を防ぎ善人を保護しもって人間の交際を全からしめんがためなり。学者何の由縁をもって書を著述し人を教育するや、後進の智見を導きてもって人間の交際を保たんがためなり。往古或るシナ人の言に、天下を治むること肉を分つが如く公平ならんと言い、また庭前の草を除くよりも天下を掃除せんと言いしも、皆人間交際のために益をなさんと欲するは人情の常なり。或いは自分には世のためにするの意なきも、知らず識らずして後世子孫自ずからその功徳を蒙ることあり。人にこの性情あればこそ人間交際の義務を達し得るなり。古より世に斯かる人物なかりせば、我輩今日に生れて今の世界中にある文明の徳沢を蒙るを得ざるべし。親の身代を譲り受くればこれを遺物と名づくと雖ども、この遺物は僅に地面家財等のみにて、これを失えば失うて跡なかるべし。世の文明は則ち然らず。世界中の古人を一体に見做し(世界中の昔の偉人の出来事をすべて勉強し)、この一体の古人より今の世界中の人なる我輩へ譲渡したる遺物なれば(この世界中すべての昔の偉人の出来事を勉強した諭吉に委ねられた過去の恩恵なので)、その洪大なること地面家財の類に非ず。されども今、誰に向かって現にこの恩を謝すべき相手を見ず。これを譬えば人生に必用なる日光空気を得るに銭を用いざるが如し。その物は貴しと雖ども、所持の主人あらばただこれを古人の陰徳恩賜と言うべきのみ。
 
(『学問のすゝめ』 九編 福澤諭吉著 より )
 人の心身の働きを細かに見れば、これを分ちて二様に区別すべし。第一は一人たる身についての働きなり。第二は人間交際の仲間に居りその交際の身についての働きなり。
 第一 心身の働きをもって衣食住の安楽を致すもの、これを一人の身についての働きという。然りと雖ども天地間の万物、一として人の便利たらざるものなし。一粒の種を蒔けば二、三百倍の実を生じ、深山の樹木は培養せざるもよく成長し、風はもって車を動かすべし、海はもって運送の便をなすべし、山の石炭を掘り、河海の水を汲み、火を点じて蒸気を造れば重大なる舟車を自由に進退すべし。この他造化の妙工を計(かぞ)うれば枚挙に遑(いとま)あらず。人はただこの造化の妙工を籍(か)り、僅(わずか)にその趣きを変じてもって自ら利するなり。故に人間の衣食住を得るは、既に造化の手をもって九十九分の調理を成したるものへ、人力にて一分を加うるのみのことなれば、人はこの衣食住を造ると言うべからず、その実は路傍に棄てたるものを拾い取るが如きのみ。
 故に人として自ら衣食住を給するは難き事に非ず。この事を成せばとて敢えて誇るべきに非ず。固より独立の活計は人間の一大事、汝の額の汗をもって汝の食を喰えとは古人の教えなれども、余が考えには、この教えの趣旨を達したればとて未だ人たるものの務を終れりとするに足らず。この教えは僅に人をして禽獣に劣ること莫(なか)らしむるのみ。試みに見よ。禽獣魚虫、自ら食を得ざるものなし。ただにこれを得て一時の満足を取るのみならず、蟻の如きは遥かに未来を図り、穴を掘って居処を作り、冬日の用意に食料を貯うるに非ずや。然るに世の中にはこの蟻の所業をもって自ら満足する人あり。今その一例を挙げん。男子年長じて、或いは工に就き、或いは商に帰し、或いは官員と為りて、漸く親類朋友の厄介たるを免かれ、相応に衣食して他人へ不義理の沙汰もなく、借屋にあらざれば自分にて手軽に家を作り、家什は未だ整わずとも細君だけは先ずとりあえずとて、望みの通りに若き婦人を娶り、身の治りもつきて倹約を守り、子供は沢山に生れたれども教育も一通りの事なれば差支(さしつかえ)なくして、細く永く長久の策に心配し、兎にも角にも一軒の家を守る者あれば、自ら独立の活計を得たりとて得意の色をなし、世の人もこれを目して不羈独立の人物と言い、過分の働きをなしたる手柄もののように称すれども、その実は大なる間違ならずや。この人はただ蟻の門人と言うべきのみ。生涯の事業は蟻の右に出るを得ず。その衣食を求め家を作るの際に当っては、額に汗を流せしこともあらん、胸に心配せしこともあらん、古人の教えに対して恥ずることなしと雖ども、その成功を見れば万物の霊たる人の目的を達したる者と言うべからず。
 右(上)の如く一身の衣食住を得てこれに満足すべきものとせば、人間の渡世はただ生れて死するのみ、その死するときの有様は旧の一村にして、世上に公の工業を起す者なく、船をも造らず橋をも架せず、一身一家の外は悉皆天然に任せて、その土地に人間生々の痕跡を遺すことなかるべし(今来の土建政治において、ほとんどの土地に事業が成されつくして、財政も空っぽになってしまっている)。西人言えることあり、世の人皆自ら満足するを知って小安に安んぜなば、今日の世界は開闢のときの世界に異なることなかるべしと。この事誠に然り。固より満足にも二様の区別ありて、その界(さかい)を誤るべからず。一を得てまた二を欲し、随って不足を覚え〔随って足れば随って不足を覚え〕、遂に飽くことを知らざるものはこれを慾と名づけ或いは野心と称すべしと雖ども、我心身の働きを拡めて達すべきの目的を達せざるものはこれを蠢愚(しゅんぐ・うごめくだけの愚者)と言うべきなり。
 
(『学問のすゝめ』 九編 福澤諭吉著 より )
 アメリカのウェイランドなる人の著したる「モラルサイヤンス」という書に、人の身心の自由を論じたることあり。その論の大意に云く、人の一身は、他人と相離れて一人前の全体を成し、自らその身を取扱い、自らその心を用い、自ら一人を支配して、務むべき仕事を務むる筈のものなり。故に、第一、人には各々身体あり。身体はもって外物に接し、その物を取りて我求むるところを達すべし。例えば、種を蒔きて米を作り、綿を取りて衣服を製するが如し。第二、人には各々智恵あり。智恵はもって物の道理を発明し、事を成すの目途を誤ることなし。例えば、米を作るに肥しの法を考え、木綿を織るに機の工夫をするが如し。皆智恵分別の働きなり。第三、人には各々情欲あり。情欲はもって心身の働きを起し、この情欲を満足して一身の幸福を成すべし。例えば人として美服美食を好まざる者なし(しかし、この情欲が満たされなくなったときに問題が生ずるので、我慢も覚える必要がある)。されどもこの美服美食は自ずから天地の間に生ずるものに非ず。これを得んとするには人の働きなかるべからず。故に人の働きは大抵皆情欲の催促を受けて起るものなり。この情欲あらざれば働きあるべからず、この働きあらざれば安楽の幸福あるべからず(しかし、この発想はバブルの崩壊と共に泡となって消えてしまった・・・)。禅坊主などは働きもなく幸福もなきものと言うべし(禅坊主はもとから幸福も捨てざるを得ない境遇をもつので、けなすものではない)。第四、人には各々至誠の本心あり(『大学』との共通点である)。誠の心はもって情欲を制し、その方向を正しくして止まる所を定むべし。例えば情欲には限りなきものにて、美服美食も何れにて十分と界(さかい)を定め難し。今もし働くべき仕事をば捨て置き、只すら我欲するもののみを得んとせば、他人を害して我心を利するより外に道なし。これを人間の所業と言うべからず。この時に当って欲と道理とを分別し、欲を離れて道理の内に入らしむるものは誠の本心なり。第五、人には各々意思あり。意思はもって事をなすの志を立つべし。例えば世の事は怪我のはずみにて出来るものなし。善き事も悪き事も、皆、人のこれをなさんとする意ありてこそ出来るものなり。
 以上五つの者は人に欠くべからざる性質にして、この性質の力を自由自在に取扱い、もって一身の独立をなすものなり。さて独立と言えば、独り世の中の偏人奇物にて世間の付き合いもなき者のように聞こえるけれど、決してそうではない。人として世に居れば固より朋友なかるべからずと雖も、その朋友もまた吾に交わりを求めること、なお朋友を慕うが如くなれば、世の交わりは相互いのことなり。ただこの五つの力を用いるに当り、天より定めたる法に従って、分限を越えないこと緊要なるのみ。即ちその分限とは、我もこの力を用い他人もこの力を用いて相互にその働きを妨げざるを言うなり(和の大事さを説いている)。かくの如く人たる者の分限を誤らずして世を渡るときは、人に咎めらるることもなく、天に罪せらるることもなかるべし。これを人間の権義と言うなり。
 右(上)の次第に由り、人たる者は他人の権義を妨げざれば自由自在に己が身体を用いるの理あり(孔子の仁(思いやり)にあたる)。その好む処に行き、その欲する処に止り、或いは働き、或いは遊び、或いはこの事を行い、或いはかの業をなし、或いは昼夜勉強するとも、或いは意に叶わざれば無為にして終日寝るも、他人に関係なきことなれば、傍より彼是とこれを議論する理なし。
 
(『学問のすゝめ』 八編 福澤諭吉著 より )

初編 3

 前条に言える通り、人の一身も一国も、天の道理に基づきて不羈自由なるものなれば、もしこの一国の自由を妨げんとする者あらば世界万国を敵とするも恐るるに足らず、この一身の自由を妨げんとする者あらば政府の官吏も憚るに足らず(武士である福澤が西洋の歴史を読んで達した心境)。ましてこのごろは四民平等の基本も立ちしことなれば、何れも安心いたし、ただ天理に従って存分に事をなすべしとは申しながら、凡そ人たる者はそれぞれの身分あれば、またその身分に従い相応の才徳なかるべからず。身に才徳を備えんとするには物事の理を知らざるべからず。これ即ち学問の急務なる訳なり。昨今の有様を見るに、農工商の三民はその身分以前に百倍し、やがて士族と肩を並ぶるの勢いに至り、今日にても三民の内に人物あれば政府の上に採用せらるべき道既に開けたることなれば、よくその身分を顧み、我身分を重きものと思い、卑劣の所行あるべからず。凡そ世の中に無知文盲の民ほど憐れむべくまた悪むべきものはあらず。智恵なきの極は恥を知らざるに至り、己が無智をもって貧究に陥り飢寒に迫るときは、己が身を罪せずして妄に傍の富める人を怨み、甚だしきは徒党を結び強訴一揆などとて乱妨に及ぶことあり。恥を知らざるとや言わん、法を恐れずとや言わん。天下の法度を頼みてその身の安全を保ちその家の渡世をいたしながら、その頼むところのみを頼みて、己が私欲のためにはまたこれを破る、前後不都合の次第ならずや。或いはたまたま身本たしかにして相応の身代ある者も、金銭を貯うることを知りて子孫を教うることを知らず。教えざる子孫なればその愚なるもまた怪しむに足らず。遂には遊惰放蕩に流れ、先祖の家督をも一朝の煙となす者少なからず。かかる愚民を支配するには、とても道理をもって諭すべき方便なければ、ただ威をもって畏(おど)すのみ。西洋の諺に愚民の上に苛(から)き政府ありとはこの事なり。こは政府の苛きにあらず、愚民の自ら招く災なり。愚民の上に苛き政府あれば、良民の上には良き政府あるの理なり。故に今、我日本国においてもこの人民ありてこの政治あるなり。仮に人民の徳義今日よりも衰えてなお無学文盲に沈むことあらば、政府の法も今一段厳重になるべく、もしまた人民皆学問に志して物事の理を知り文明の風に赴くことあらば、政府の法もなおまた寛仁大度の場合に及ぶべし。法の苛きと寛(ゆる)やかなるとは、ただ人民の徳不徳に由って自ずから加減あるのみ。人誰か苛政を好みて良政を悪む者あらん、誰か本国の富強を祈らざる者あらん、誰か外国の侮を甘んずる者あらん、これ即ち人たる者の常の情なり。今の世に生れ報国の心あらん者は、必ずしも身を苦しめ思いを焦すほどの心配あるにあらず。ただその大切なる見当は、この人情に基づきて先ず一身の行いを正し、厚く学に志し博く事を知り、銘々の身分に相応すべきほどの智徳を備えて、政府はその政を施すに易く諸民はその支配を受けて苦しみなきよう、互いにその所を得て共に全国の太平を護らんとするの一事のみ、今余輩の勧むる学問も専らこの一事をもって趣旨とせり。
 
 
  端書
 
 このたび余輩の故郷中津に学校を開くにつき、学問の趣意を記して旧く交わりたる同郷の友人へ示さんがため一冊を綴りしかば、或人これを見て云く、この冊子を独り中津の人へのみ示さんより、広く世間に布告せばその益もまた広かるべし、との勧めに由り、乃ち慶応義塾の活字版をもってこれを摺り、同志の一覧に供うるなり。
      明治四年未十二月
 
                                 福澤 諭吉
                                 木幡篤次郎 記
 
                                 (明治五年二月出版)
 
 
(『学問のすゝめ』 福澤諭吉著 より )

初編 2

 学問とは、ただむつかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず。これらの文学も自ずから人の心を悦ばしめ随分調法なるものなれども、古来世間の儒者和学者などの申すよう、さまであがめ貴むべきものにあらず。古来漢学者に世帯持の上手なる者も少なく、和歌をよくして商売に巧者なる町人も稀なり。これがため心ある町人百姓は、その子の学問に出精するを見て、やがて身代を持ち崩すならんとて親心に心配する者あり。無理ならぬことなり。畢竟その学問の実に遠くして日用の間に合わぬ証拠なり。されば今かかる実なき学問は先ず次にし、専ら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。譬(たと)えば、いろは四十七文字を習い、手紙の文言、帳合の仕方、算盤の稽古、天秤の取扱い等を心得、なおまた進んで学ぶべき箇条は甚だ多し。地理学とは日本国中は勿論世界万国の風土道案内なり。究理学とは天地万物の性質を見てその働きを知る学問なり。歴史とは年代記のくわしきものにて万国古今の有様を詮索する書物なり。経済学とは一身一家の世帯より天下の世帯を説きたるものなり。修身学とは身の行いを修め人に交わりこの世を渡るべき天然の道理を述べたるものなり。これらの学問をするに、いずれも西洋の翻訳書を取調べ、大抵の事は日本の仮名にて用を便じ、或いは年少にして文才ある者へは横文字をも読ませ、一科一学も実事を押え、その事に就きその物に従い、近く物事の道理を求めて今日の用を達すべきなり。右は人間普通の実学にて、人たる者は貴賤上下の区別なく皆悉くたしなむべき心得なれば、この心得ありて後に士農工商各〃その分を尽し銘々の家業を営み、身も独立し家も独立し天下国家も独立すべきなり。
 学問をするには分限を知ること肝要なり。人の天然生れ附は、繋がれず縛られず、一人前の男は男、一人前の女は女にて、自由自在なる者なれども、ただ自由自在とのみ唱えて分限を知らざれば我儘(わがまま)放蕩(ほうとう)に陥ること多し。即ちその分限とは、天の道理に基づき人の情に従い、他人の妨げをなさずして我一身の自由を達することなり。自由と我儘との界(さかい)は、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり。譬えば自分の金銀を費やしてなすことなれば、仮令い酒色に耽り放蕩を尽すも自由自在なるべきに似たれども、決して然らず(そうではない)、一人の放蕩は諸人の手本となり遂に世間の風俗を乱りて人の教えに妨げをなすがゆえに、その費やすところの金銀はその人のものたりともその罪許すべからず(許すべきではない)。また自由独立の事は、人の一身に在るのみならず一国の上にもあることなり。我日本はアジヤ洲の東に離れたる一個の島国にて、古来外国と交わりを結ばず独り自国の産物のみを衣食して不足と思いしこともなかりしが、嘉永年中アメリカ人渡来せしより外国交易の事始まり今日の有様に及びしことにて、開港の後も色々と議論多く、鎖国攘夷などとやかましく言いし者もありしかども、その見るところ甚だ狭く、諺にいう井の底の蛙にて、その議論取るに足らず。日本とても西洋諸国とても同じ天地の間にありて、同じ日輪に照らされ、同じ月をながめ、海を共にし、空気を共にし、情合相同じき人民なれば、ここに余るものは彼に渡し、彼に余るものは我に取り、互いに相教え互いに相学び、恥ずることもなく誇ることもなく、互いに便利を達し互いにその幸を祈り、天理人道に従って互いの交わりを結び、理のためにはアフリカの黒奴にも恐れ入り、道のためにはイギリス、アメリカの軍艦をも恐れず、国の恥辱とありては日本国中の人民一人も残らず命を棄てて国の威光を落さざるこそ、一国の自由独立と申すべきなり。然るをシナ人などの如く、我国より外に国なき如く、外国の人を見ればひとくちに夷狄々々と唱え、四足にてあるく畜類のようにこれを賤しめこれを嫌い、自国の力を計らずして妄に外国人を追い払わんとし、却ってその夷狄にくるしめらるるなどの始末は、実に国の分限を知らず、一人の身の上にて言えば天然の自由を達せずして我儘放蕩に陥る者と言うべし。王制一度新たなりしより以来、我日本の政風大いに改まり、外は万国の公法をもって外国に交わり、内は人民に自由独立の趣旨を示し、既に平民へ苗字乗馬を許せしが如きは開闢(かいびゃく)以来の一美事、士農工商四民の位を一様にするの基ここに定まりたりと言うべきなり。されば今より後は日本国の人民に、生れながらその身に附たる位などと申すは先ずなき姿にて、ただその人の才徳とその居処とに由って位もあるものなり。譬えば政府の官吏を粗略にせざるは当然の事なれども、こはその人の身の貴きにあらず、その人の才徳をもってその役義を勤め、国民のために貴き国法を取扱うがゆえにこれを貴ぶのみ。人の貴きにあらず、国法の貴きなり。旧幕府の時代、東海道に御茶壺の通行せしは、皆人の知るところなり。その外御用の鷹は人よりも貴く、御用の馬には往来の旅人も路を避くる等、すべて御用の二字を附くれば石にても瓦にても恐ろしく貴きもののように見え、世の中の人も数千百年の古よりこれを嫌いながらまた自然にその仕来に慣れ、上下互いに見苦しき風俗を成せしことなれども、畢竟これらは皆法の貴きにもあらず、品物の貴きにもあらず、ただ徒に政府の威光を張り人を畏(おど)して人の自由を妨げんとする卑怯なる仕方にて、実なき虚威というものなり。今日に至りては最早全日本国内にかかる浅ましき制度風俗は絶えてなき筈なれば、人々安心いたし、かりそめにも政府に対して不平を抱くことあらば、これを包みかくして暗に上を怨むることなく、その路を求めその筋に由り、静かにこれを訴えて遠慮なく議論すべし。天理人情にさえ叶う事ならば、一命をなげうって争うべきなり。これ即ち一国人民たる者の分限と申すものなり(福澤諭吉は、武士出身であるので、戦争も否定しないし、命をかけて正義を訴えることも当然と考えていた。勝海舟と異なるところである)。
 
(『学問のすゝめ』 福澤諭吉著 より )

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