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春に植えたバジルとチャービルは順調に生育している。今年は、梅雨が短く、雨が降らない。まるでサバナ気候になっていくみたいである。とにかく陽射しが強いので、困惑している。朝に水をまいた鉢植えも、すぐにからからになってしまう。部屋の草木もくたっている。植物もへたるくらいだから、人間もふらふらになるだろう。厨房の皆さんは、脱水症状になってやしないだろうか。やはり、草木を植えなければ、人類は滅亡するにちがいない。滅亡するということは、意外とあっけないことからおきるのかもしれない。注意しなければいけない。日に日に、山間部に遷って、山荘で小料理でもつくることを夢見てしまう。それも、天然のものをかき集めて作るような健康的な食事をつくるのである。都会の暑い日ざしを避けて、いわゆる避暑のような山奥が求められている。いくら、クーラーで冷房しても、外部の熱射までは緩和してくれない。山間部の神々しい空気の清浄さには、精神を落ち着けてくれる成分が多く含まれている。それはほんに微妙なものである。微妙なものだから、何かに追われている現代人には見過ごされてしまう性質である。わずかなヒノキの香とか、山椒のわずかな漂いとか、そういった物を感じる感覚が麻痺して、物やカネばかりしか見えなくなっている。そのくせに、カネの莫大な国家の財政赤字には目をむけることもない。物もたくさん買い集めているにもかかわらず、その使い道がない。お金をたくさん持っていても、全然世の中の役に立てていない。役に立てていないから、そのかき集めた分、自殺者が出る。ただ、お金や物を持っていても、それだけのことで、何にもできない。これが日本人のレベルである。カネや物が有り余っても、人々を幸福にするという余裕がないのが国家の現状である。そのような現状でどうして愛国心なんていうことができるだろうか。憲法二十五条も、幾多の法律もうまく機能していないのに、どうして国家というものを信じろというのか、となってくる。果たして、今の国家は愛するに足る国家であるのかということをまず問いたい。吾輩は不合格としかいえないだろう。
ああ、バジルの香りが立ち込めて、レモンバームやパイナップルセージの匂いもする。森には、木々の特有の清涼なコロンが満ちている。ひんやりして、生気を補ってくれるような感覚になる。そのような土地は、もう数える限りしか残されていない。吾輩の知るところも、奥地にだんだんと遠ざかっていくようなのである。あまりにも人跡が入りすぎると、その聖地というべき感覚のコロンは消えてしまう。だから、吾輩はその場所は知らせないようにしている。そうして、そういった土地の穏やかな性質を作り出しているものは何かと探し続けている。それが地球温暖化を食い止める何かであることは、まちがいない。水分にさまざまな香りの微成分が含まれている。単純化されていない環境のなせるわざであろう。吾輩は視覚、聴覚が主に物質文明の原点だと思っているが、この物質文明はゴミや大量の消費社会によって、窮屈になっていると、ずっと言われ続けて、みんなそれに気づかないように、働いている。もう少し、落ち着いて考えてみれば、無駄なものはずっと省けるのにとかんがえてしまう。ゆっくりと考えてみるのも、生活のゆとりとして必要なのである。よく考えていけば、無駄な労力をなくすことができる。草木に水をやりながら、国家に税金をはらえる身分にはやくなりたいものだと思う。しかし、なかなかチャンスはめぐってこない。国家に税金をはらえない人々が増えれば、ますます国家から人は離れていく。愛国心というものは、まず国家が国民に愛されるに足る国家であるかを自省しなければ、言えないことだろう。愛というものは、怒りによっては生み出せないものだ。何かを育てるということには、愛情が必要である。この日本という国民国家を育てるという気持ちがなくては、愛国心なんてないのと同じである。人間を愛することなしに、郷土や国家を愛することなんてできない。だから、吾輩はまず自然の草木を愛することにした。それがまずできることなのかもしれない。大切にするということだ。しかし、なぜ、親切とは親を切るというふうに書くのだろうか。親を大切にできなければ、人を愛することなんて出来ないのかも知れない。まして、子供を育てるなんて難しいかぎりだ。
霧山人
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