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それをまた他の方面から立証するものは、山人の言語であります。彼らが物を言ったという例は、ほとんどないといってよいのであるが、平地人のいわゆる日本語は、たいていの場合には山人に理解せられます。ずいぶんと込み入った事柄でも、呑込んでその通りにしたというのは、すなわち片親の方からその知識が、だんだんに注入せられている結果かと思います。それでなければ米の飯をひどく欲しがりまた焚火を悦び、しばしば常人に対して好意とまではなくとも、じっと目送りしたりするほどの、平和な態度をとったという話が解せられず、ことに頼まれて人を助け、市に出て物を交易するというだけの変化の原因が想像しえられませぬ。多分は前代にあっても最初は同じ事情から、耕作の趣味を学んで一地に土着し、わずかずつ下流の人里と交通を試みているうちに、自他ともに差別の観念を忘失し、すなわち武陵桃源(陶淵明のいう平和な別天地)の発見とはなったのであろうと思います。
これを要するに山人の絶滅とは、主として在来の生活の特色のなくなることでありました。そうして山人の特色とは何であったかというと、一つには肌の色の赤いこと、二つには丈高く、ことに手足の長いことなどが、昔話の中に今も伝説せられます。諸国に数多き大人(おおひと)の足跡の話は、話となって極端まで誇張せられ、加賀(石川県)ではあの国を三足であるいたという大足跡もありますが、もとは長髄彦(ながすねひこ)もしくは上州(群馬県)の八掬脛(やつかはぎ)ぐらいの、やや我々より大きいという話ではなかったかと思われます。北ヨーロッパでは昔話の小人というのが、先住異民族の記憶の断片と解せられていますが、日本はちょうどその反対で、現に東部の弘い地域にわたり、今もって山人のことを大人と呼んでいる例があるのです。
私は他日この問題がいますこし綿密に学界から注意せられて、単に人類学上の新資料を供与するに止らず、日本人の文明史において、まだいかにしても説明しえない多くの事蹟がこの方面から次第に分ってくることを切望いたします。ことに我々の血の中に、若干の荒い山人の血を混じているかも知れぬということは、我々にとってじつに無限の興味であります。
了
(『山人考』 柳田國男 著 より )
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柳田國男の山人考
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山男・山姥が町の市日に、買物に出るという話が方々にありました。果してそんな事があったら、衣服風体なども目に立たぬように、済ましてただの田舎者の顔をするのだから、山人としては最も進んだ、すぐにも百姓に同化しうる部類で、いわば一種の土着見習生のごときものであります。それ以外には力(つと)めて人を避けるのがむしろ通例で、自分の方から来るというはよくよくの場合、すなわち単なる見物や食物のためではなかったらしいのです。しかも人類としては一番強い内からの衝動、すなわち配偶者の欲しいという情は、往々にして異常の勇敢を促したかと思う事実があります。
もっとも山人の中にも女はあって、族内の縁組も絶対に不可能ではなかったが、人が少なく年が違い、久しい孤独を忍ばねばならぬ際に、堪えかねて里に降って若い男女を誘うたことも、稀ではなかったように考えます。神隠しと称する日本の社会の奇現象は、あまりにも数が多く、その中には明白に自身の気の狂いから、何となく山に飛び込んだ者も少なくないのですが、原因の明瞭になったものはかつてないので、しかも多くは還って来ず、一方には年を隔てて山中で行逢うたという話が、決して珍しくはないから、こういう推測が成立つのであります。世中が開けてからは、かりに著しくその場合が減じたにしても、物憑き物狂いがいつも引寄せられるように、山へ山へと入って行く暗示には、千年以前からの潜んだ威圧が、なお働いているものとみることができます。
(『山人考』 柳田國男 著 より )
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交通の問題についても少々考えてみました。日本は山国で北は津軽の半島の果から南は長門の小串の尖(さき)まで少しも平野に下り立たずして往来することができるのでありますが、彼らは必要以上に遠くへ走るような余裕も空想もなかったと見えて、居るという地方にのみいつでもおりました。全国の山地で山人の話の特に多いところが、近世では十数箇処あって、互いに隔絶してその間の連絡は絶えていたかと思われ、気をつけてみると少しずつ、気風習性のごときものが違っていました。今日知れている限りの山人生息地は、北では陸羽(東北地方)の境の山であります。ことに日本海へ近よった山群であります。それから北上川左岸の連山、次には只見川の上流から越後(新潟県)秋山へかけての一帯、東海岸は大井川の奥、次は例の吉野から熊野の山、中国では大山山彙(さんい)などが列挙しえられます。飛騨(岐阜県)は山国でありながら、不思議に今日はこの話が少なく、青年の愛好する北アルプスから立山方面、黒部川の入(いり)なども今はもう安全地帯のようであります。これに反して小さな離島(はなれじま)でも、屋久島はいまなお痕跡があり、四国にも九州にももちろん住むと伝えられます。四国では剣山の周囲ことに土佐(高知県)の側には無数の話があり、九州は東岸にやや偏して、九重山以南霧島山以北一帯に、最も無邪気なる山人が住むといわれております。海が彼らの交通を遮断するのは当然ですが、なお少しは水を泳ぐこともできました。山中にはもとより東西の通路があって、老巧なる木樵・猟師は容易にこれを認めて遭遇を避けました。夜分には彼らもずいぶん里近くを通りました。その方が路(みち)が楽であったことは、彼らとても変りはないはずです。鉄道の始めて通じた時はさぞ驚いたろうと思いますが、今では隧道(トンネル)なども利用しているかも知れませぬ。火と物音にさえ警戒しておれば、平地人の方から気がつく虞(おそれ)はないからであります。
(『山人考』 柳田國男 著 より )
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山中ことに漂泊の生存が最も不可能に思われるのは火食の一点であります。一旦その便益を解していた者が、これを抛棄(ほうき)したということはありえぬように思われますがとにかくに孤独なる山人には火を利用した形跡なく、しかも山中には虫魚鳥小獣のほかに草木の実と若葉と根、または菌類(きのこるい)などが多く、生(なま)で食っていたという話はたくさんに伝えられます。木挽(こびき)・炭焼(すみやき)の小屋に尋ねてきて、黙って火にあたっていたという話もあれば、川蟹(かわがに)を持ってきて焼いて食ったなどとも伝えます。塩はどうするかという疑いのごときは疑いにはなりませぬ。平地の人のごとく多量に消費してはおられぬが、日本では山中に塩分を含む泉至って多く、また食物の中にも塩気の不足を補うべきものがある。また永年の習性でその需要は著しく制限することができました。吉野の奥で山に遁げこんだ平地人が、山小屋に塩を乞いにきた。一握みの塩を悦んで受けてこれだけあれば何年とかは大丈夫といった話が、『覊旅漫録(きりょまんろく)』かに見えておりました。
それから衣服でありますが、これも獣皮でも樹の皮でも、用は足りたろうと思うにかかわらず多くの山人は裸であったといわれております。恐らくは裸体であるために人が注意することになったのでしょうが、わが国の温度には古今の変は少なかろうと思うのに、国民の衣服の近世甚だしく厚くるしくなったのを考えますと、馴らせば無しにも起臥しえられてこの点はあまり顧慮しなかったものと見えます。不思議なことには山人の草鞋(わらじ)と称して、非常に大形のものを山中で見かけるという話がありますが、それは実用よりも何か第二の目的、すなわち南日本の或る海岸の村で、今でも大草履(おおぞうり)を魔除けとするごとく、彼ら独特の威嚇法(いかくほう)をもってなるべく平地人を廻避した手段であったかも知れませぬ。
(『山人考』 柳田國男 著 より )
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そこで最終に自分の意見を申しますと、山人すなわち日本の先住民は、もはや絶滅したという通説には、私もたいていは同意してよいと思っておりますが、彼らを我々のいう絶滅に導いた道筋についてのみ、若干の異なる見解を抱くのであります。私の想像する道筋は六筋、その一は帰順朝貢に伴なう編貫であります。最も堂々たる同化であります。その二は討死、その三は自然の子孫断絶であります。その四は信仰界を通って、かえって新来の百姓を征服し、好条件をもってゆくゆく彼らと併合したもの、第五は永い歳月の間に、人知れず土着しかつ混淆したもの、数においてはこれが一番に多いかと思います。
こういう風に列記してみると、以上の五つのいずれにも入らない差引残、すなわち第六種の旧状保持者、というよりも次第に退化して、今なお山中に漂泊しつつあった者が、少なくとも或る時代までは、必ずいたわけだということが、推定せられるのであります。ところがこの第六種の状態にある山人の消息は、きわめて不確実であるとは申せ、つい最近になるまで各地独立して、ずいぶん数多く伝えられておりました。それは隠者か仙人かであろう。いや妖怪か狒々(ひひ)かまたは駄法螺かであろうと、勝手な批評をしても済むかも知れぬが、事例は今少しく実着でかつ数多く、またそのようにまでして否認をする必要もなかったのであります。
(『山人考』 柳田國男 著 より )
大和民族も山人と同じ運命を辿っている・・・。
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