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柳田國男の山人考

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大正六年日本歴史地理学会大会講演手稿


山人会の秘密

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山人考 六 3

 しかも必ずしも魔所といわず、また有名な老木などのない地にも、やはり同様の奇怪はおりおりあって、或る者は天狗以外の力としてこれを説明しようとしました。例えば不思議の石打ちは、久しく江戸の市中にさえこれを伝え、市外池袋の村民を雇入れると、氏神が惜んでこの変を示すなどともいいました。また伐木坊(きりきぼう)という怪物が山中に住み、毎々大木を伐倒す音をさせて、人を驚かすという地方もあり、狸が化けてこの悪戯をするという者もありました。深夜にいろいろの物音がきこえて、所在を尋ねると転々するというのは、広島で昔評判したバタバタの怪、または東京でも七不思議の一つに算(かぞ)えた本所の馬鹿囃子の類です。(宮崎県都城市の母智尾神社で似たような伝えがある。)単に一人が聴いたというのなら、おまえはどうかしていると笑うところですが、現に二人三人の者が一所にいて、あれ聴けといって顔を見合せる類のいわゆるアリュシナシオン・コレクチーブであるために、迷信もまた社会化したのであります。
 私の住む牛込の高台にも、やはり頻々と深夜の囃子の音があると申しました。東京のはテケテンという太鼓だけですが、加賀(石川県)の金沢では笛が入ると、泉鏡花君は申されました。遠州(静岡県)の秋葉街道で聴きましたのは、この天狗の御膝元にいながらこれを狸の神楽と称し現に狸の演奏しているのを見たとさえいう人がありました。近世いい始めたことと思いますが狸は最も物真似に長ずと信じられ、ひとり古風な腹鼓(はらづつみ)のみにあらず、汽車が開通すれば汽車の音、小学校のできた当座は学校の騒ぎ、酒屋が建てば杜氏の歌の声などを、真夜中に再現させて我々の耳を驚かしています。しかもそれを狸のわざとする論拠は、みながそう信ずるという事実より以上に、一つも有力なものはなかったのです。
 これらの現象の心理学的説明はおそらくさして困難なものでありますまい。常は聴かれぬ非常に印象の深い音響の組合せが、時過ぎて一定の条件のもとに鮮明に再現するのを、その時また聴いたように感じたものかも知れず、社会が単純で人の素養に定まった型があり、外から攪乱(こうらん)する力の加わらぬ場合には、多数が一度に同じ感動を受けたとしても少しもさしつかえはないのでありますが、問題はただその幻覚の種類、これを実験し始めた時と場処、また名づけて天狗の何々と称するに至った事情であります。山に入ればしばしば脅かされ、そうでないまでもあらかじめ打合せをせずして、山の人の境を侵すときに、我と感ずる不安のごときものと、山にいる人の方が山の神に親しく、農民はいつまでも外客だという考えとが、永く真価以上に山人を買い被っていた、結果ではないかと思います。
 
(『山人考』  柳田國男 著 より )

山人考 六 2

 天狗を山人と称したことは、近世二三の書物に見えます。或は山人を天狗と思ったという方が正しいのかも知れぬ。天狗の鼻を必ず高く、手には必ず羽扇を持たせることにしたのは、近世のしかも画道の約束みたようなもので、『太平記』以前のいろいろの物語には、ずいぶん盛んにこれを説いてありますが、さほど鼻のことを注意しませぬ。仏法の解説ではこれを魔障とし善悪二元の対立を認めた古宗教の面影を伝えているにもかかわらず、一方には天狗の容貌服装のみならず、その習性感情から行動の末までが、仏法の一派と認めている修験・山伏とよく類似し、後者もまたこれを承認して、時としてはその道の祖師であり守護神ででもあるかのごとく、崇敬しかつ依頼する風のあったことは、何か隠れたる仔細のあることでなければなりませぬ。恐らくは近世全く変化してしまった山の神の信仰に、元は山人も山伏も、ともに或る程度までは参与していたのを、平地の宗教がだんだんにこれを無視しまたは忘却して行ったものと思っております。
 今となってはわずかに残る民間下層のいわゆる迷信によって、切れ切れの事実の中から昔の実情を尋ねて見るのほかはないのであります。一つの例をあげてみますれば、山中には往々魔所と名づくる場処があります。京都近くにもいくつかありました。入って行くといろいろの奇怪があるように伝えられ、従って天狗の住家か、集会所のごとく人が考えました。その奇怪というのは何かというと、第一には天狗礫(てんぐつぶて)、どこからともなく石が飛んでくる。ただし通例は中って人を傷けることがない。第二には天狗倒し、非常な大木をゴッシンゴッシンと挽き斫る音が聴え、ほどなくえらい響を立てて地に倒れる。しかも後にその方角に行って見ても、一本も新たに伐った株などはなく、もちろん倒れた木などもない。第三には天狗笑い、人数ならば十人十五人が一度に大笑いをする声が、不意に閑寂の林の中から聴える。害意はなくとも人の肝を寒くする力は、かえって前二者よりも強かった。その他にやや遠くから実験したものには笛太鼓の囃しの音があり、また喬木の梢の橙の影などもあって、じつはその作者を天狗とする根拠は確実でないのですが、天狗でなければ誰がするかという年来の速断と、天狗ならばしかねないという遺伝的類推法をもって、別に有力なる反対者もなしに、のちにはこうして名称にさえなったのであります。
 
(『山人考』  柳田國男 著 より )

山人考 六 1

 土佐(高知県)では寛永の十九年に、高知の城内に異人が出現したのを、これ山みこという者だといって、山中に送り還した話があります。ミコ(巫女・神子)は神に仕える女性もしくは童子の名で、山人をそう呼んだことの当否は別として、少なくとも当時なおこの地方には、彼らと山神とのなんらかの関係を、認めていた者のあったという証拠にはなります。山の神の信仰も維新以後の神祇官系統の学説に基づき、名目と解釈の上に大なる変化を受けたことは、あたかも陰陽道が入ってオニが漢土の鬼になったのと似ております。今日では山神社の祭神は、大山祇命(おおやまつみのみこと)かその御娘の木花開耶姫(このはなさくやひめ)と、報告せられておらぬものがないというありさまですが、これを各地の実際の信仰に照してみると、なんとしてもそれを古来の言い伝えとはみられぬのであります(改竄があるということだ)。
 村に住む者が山神を祀り始めた動機は、近世には鉱山の繁栄を願うもの、或いはまた狩猟のためというのもありますが、大多数は採樵(さいしょう)と開墾の障碍なきを祷(いの)るもので、すなわち山の神に木を乞う祭、地を乞う祭を行うのが、これらの社の最初の目的でありました。そうしてその祭を怠った制裁は何かというと、怪我をしたり発狂したり死んだり、かなり怖ろしい神罰があります。東北地方には往々として路の畔に、山神と刻んだ大きな石塔が立っている。建立の年月日人の名なども彫ってありますが、如何して立てたかと聴くと、必ずその場処に何か不思議があって、臨時の祭をした記念なること、あたかも馬が急死するとその場処において供養を営み、馬頭観音(ばとうかんのん)もしくは庚申塔(こうしんとう)などを立てるのと同じく、しかも何の不思議かと問えば、たいていは山の神に不意に行逢うた、怖ろしいので気絶をしたという類で、その姿はまぼろしにもせよ、常に裸の背の高い、色の赤い眼の光の鋭い、ほぼ我々が想像する山人に近く、また一方ではこれを山男ともいっているのであります(吾輩は背は高くないし眼は赤くない・・・)
 
(『山人考』  柳田國男 著 より )

山人考 五 3

 それよりも今一段と顕著なる実例は、大和吉野の大峯山下の五鬼(ごき)であります。洞川(どろかわ)という谷底の村に、今では五鬼何という苗字の家が五軒あり、いわゆる山上参りの先達職を世襲し聖護院の法親王御登山の案内をもって、一代の眉目としておりました。吉野の下市の町近くには、善鬼(ぜんき)垣内(かいと)という地名もあって、この地に限らず五鬼の出張が方々にありました。諸国の山伏の家の口碑には、五流併立を説くことがほとんど普通になっています。すなわち五鬼は五人の山伏の家であろうと思うにかかわらず、前鬼(ぜんき)後鬼(ごき)とも書いて役(えん)の行者(ぎょうじゃ)の二人の侍者(じしゃ)の子孫といい、従ってまた御善鬼様などと称して、これを崇敬した地方もありました。
 善鬼は五鬼の始祖のことで、五鬼のほかに別に団体があったわけではないらしく、古くは今の五鬼の家を前鬼というのが普通でありました。その前鬼が下界と交際を始めたのは、戦国のころからだと申します。その時代までは彼らにも通力があったのを、浮世の少女と縁組をしたばかりに、のちにはただの人間になったという者もありますが、実際にはごく近代になるまで、一夜の中に二十里三十里の山を往復したり、くれると言ったら一畠の茄子をみな持って行ったり、なお普通人を威服するに十分なる、力を持つ者のごとく評判せられておりました。
 とにかくに彼らが平地の村から、移住した者の末ではないことは、自他ともに認めているのです。これと大昔の山人との関係は不明ながら、山の信仰には深い根を持っています。そこでこの意味において、今一応考えてみる必要があると思うのは、相州(神奈川県)箱根・三州(愛知県)鳳来寺、近江(滋賀県)の伊吹山、上州(群馬県)の榛名山、出羽(山形県)の羽黒・紀州(和歌山県)の熊野、さては加賀(石川県)の白山等に伝わる開山の仙人の事蹟であります。白山の泰澄大師などは、奈良の仏法とは系統が別であるそうで、近ごろ前田慧雲師はこれを南洋系の仏教と申されましたが、自分はいまだその根拠のいずれにあるかを知らぬのであります。とにかくに今ある山伏道も、遡って聖宝僧正以前になりますと、教義も作法もともに甚だしく不明になり、ことに始祖という役小角(えんのおづの)に至っては、これを仏教の教徒と認めることすら決して容易ではないのです。仙術すなわち山人の道と名づくるものが、別に存在していたという推測も、なお同様に成立つだけの余地があるのであります。
 
(『山人考』  柳田國男 著 より )

山人考 五 2

 自分はまず第一に、中世の鬼の話に注意をしてみました。オニに鬼の漢字を充てたのはずいぶん古いことであります。その結果支那から入った陰陽道の思想がこれと合体して、『今昔物語(今昔物語集)』の中の多くの鬼などは、人の形を具えたり具えなかったり、孤立独往して種々の奇怪を演じ、時としては板戸に化けたり、油壺になったりして人を害するを本業としたかの観がありますが、始終この鬼とは併行して、別に一派の山中の鬼があって、往々にして勇将猛士に退治せられております。斉明天皇の七年八月に、筑前(福岡県)朝倉山の崖の上にうずくまって、大きな笠を着てあごを手で支えて、天子の御葬儀を俯瞰していたという鬼などは、この系統の鬼の中の最も古い一つである。酒顚童子にせよ、鈴鹿山の鬼にせよ、悪路王・大竹丸・赤顔にせよいずれも武力の討伐を必要としております。その他吉備津の塵輪も三穂太郎も、鬼とはいいながらじつは人間の最も獰猛なるものに近く、護符や修験者の呪文だけでは、煙のごとく消えてしまいそうにもない鬼でありました。
 また鬼という者がことごとく、人を食い殺すを常習とするような兇悪な者のみならば、決して発生しなかったろうと思う言い伝えは、自ら鬼の子孫と称する者の、諸国に居住したことである。その一例は九州の日田附近にいた大蔵氏、系図を見ると代々鬼太夫などと名乗り、しばしば公の相撲の最手(ほて)に召されました。この家は帰化人の末と申しています。次には京都に近い八瀬の里の住民、俗にゲラなどと呼ばれた人々です。このことについては前に小さな論文を公表しておきました。二三の顕著なる異俗があって、誇りとして近年までこれを保持していました。黒川道祐などはこれを山鬼の末と書いています。山鬼は地方によって山爺のことをそうもいい眼一つ足一つだなどといった者もあります。一方ではまた山鬼護法と連称して、霊山の守護に任ずる活神(いきがみ)のごとくにも信じました。安芸の宮島の山鬼は、おおよそ我々のよくいう天狗と、する事が似ていました。秋田大平山の三吉権現も、また奥山の半僧坊や秋葉山の三尺坊の類で、地方に多くの敬信者を持っているが、やはりまた山鬼という語の音から出た名だろうという説があります。
 
(『山人考』  柳田國男 著 より )

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