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山人という語は、この通り起原の年久しいものであります。自分の推測としては、上古史上の国津神が末二つに分れ、大半は里に下って常民に混同し、残りは山に入りまたは山に留まって、山人と呼ばれたと見るのですが、後世に至っては次第にこの名称を、用いる者がなくなって、かえって仙という字をヤマビトと訓ませているのであります。
自分が近世いうところの山男山女・山童山姫・山丈山姥などを総括して、かりに山人と申しておるのは必ずしも無理な断定からではありませぬ。単に便宜上この古語を復活して使って見たまでであります。昔の山人の中で、威力に強いられ乃至は下され物を慕うて、遙に京へ出てきた者は、もちろん少数であったでしょう。しからばその残りの旧弊な多数は、ゆくゆくいかに成り行いたであろうか。これからがじつは私一人の、考えて見ようとした問題でありました。
(『山人考』 柳田國男 著 より )
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柳田國男の山人考
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また平野神社の四座御祭、園神三座などに、出でて仕えた山人という者も、元は同じく大和の国栖であったろうと思います。山人が庭火の役を勤めたことは、『江次第』にも見えている。祭の折に賢木(さかき)を執って神人に渡す役を、元は山人が仕え申したということは、もっとも注意を要する点かと心得ます。
ワキモコガアナシノ山ノ山人ト人モ見ルカニ山カツラセヨ
これは後代の神楽歌で、衛士(えじ)が昔の山人の役を勤めるようになってから、用いられたものと思います。ワキモコガはマキムクノの訛り、纏向穴師は三輪の東に峙(そばだ)つ高山で、大和北部の平野に近く、多分は朝家の思召(おぼしめし)に基いて、この山にも一時国栖人の住んでいたのは、御式典に出仕する便宜のためかと察しられます。
しからば何が故に右のごとき厳重の御祭に、山人ごときが出て仕えることであったか。これはむつかしい問題で、同時にまた山人史の研究の、重要なる鍵でもあるように自分のみは感じている。山人の参列はただの朝廷の体裁装飾でなく、或いは山から神霊を御降し申すために、欠くべからざる方式ではなかったか。神楽歌の穴師の山は、もちろんのちに普通の人を代用してから、山かずらをさせて山人と見ようという点に、新たな興味を生じたものですが、『古今集(古今和歌集)』にはまた大歌所の執り物の歌としてあって、山人の手に持つ榊(さかき)の枝に、何か信仰上の意味がありそうに見えるのであります。
(『山人考』 柳田國男 著 より )
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国郡の境を定めたもうということは、古くは成務天皇の条、また允恭天皇の御時にもありました。これもまた『姓氏録』に阪合部朝臣(さかあいべのあそん)、仰せを受けて境を定めたともあります。阪合は境のことで、阪戸・阪手・阪梨(阪足)などとともに、中古以前からの郷の名・里の名にありますが、今日の境の村と村との境を画するに反して、昔は山地と平野との境、すなわち国つ神の領土と、天つ神の領土との、境を定めることを意味したかと思います。高野山の弘法大師(弘法大師空海)などが、猟人の手から霊山の地を乞い受けたなどという昔話は、恐らくはこの事情を反映するものであろうと考えます。古い伽藍の地主神が、猟人の形で案内をせられ、また留まって守護したもうという縁起は、高野だけでは決してないのであります。
「天武天皇紀」の吉野行幸の条に、獦者(かりびと)二十余人云々、または獦者之首などとあるのは、国樔のことでありましょう。国樔は「応神紀」に、其為人甚(そのひととなりははなはだ)淳朴也などともありまして、佐伯とは本来同じ種族でないように思われます。『北山抄』『江次第(江家次第)』の時代を経て、それよりもまた遥か後代まで名目を存していた、新春朝廷の国栖(くず)の奏は、最初には実際この者が山を出でて来り仕え、御贄(みあえ)を献じたのに始まるのであります。『延喜式』の宮内式には、諸の節会(せちえ)の時、国栖十二人笛工五人、合せて十七人を定としたとあります。古注には笛工の中の二人のみが、山城(京都府)綴喜郡にありとあります故に、他の十五人は年々現実に、もとは吉野の奥から召されたものでありましょう。『延喜式』のころまでは如何かと思いますが、現に神亀三年には、召出されたという記録が残っているのであります。
(『山人考』 柳田國男 著 より )
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種族の絶滅ということは、血の混淆ないしは口碑の忘却というような意味でならば、これを想像することができるが、実際に殺され尽しまた死に絶えたということは「景行天皇紀」にいわゆる撃てばすなわち草に隠れ追えばすなわち山に入るというごとき状態にある人民には、とうていこれを想像することができないのです。『播磨風土記(播磨国風土記)』を見ると、神前郡(現・神崎郡 )大川内、同じく湯川の二処に、異俗人三十許口(みそたりばかり)ありとあって、地名辞書にはこれを今日の寺前・長谷二村の辺に考定しています。すなわち汽車が姫路に近づこうとして渡るところの、今日市川と称する川の上流であって、じつはかく申す私などもその至って近くの村に生れました。和銅・養老の交まで、この通り風俗を異にする人民が、その辺にはいたのであります。
右にいう異俗人は、果していかなる種類に属するかは不明であるが、『新撰姓氏録』巻の五、右京皇別佐伯直(さへきのあたい)の条を見ると、「此家の祖先とする御諸別命(みもろわけのみこと)、成務天皇の御宇に播磨の此地方に於て、川上より菜の葉の流れ下るを見て民住むと知り、求め出し之を領して部民と為す云々」とあって、或いはその御世から引続いて、同じ者の末であったかも知れませぬ。
この佐伯部は、自ら蝦夷の俘(ふ)の神宮に献ぜられ、のちに播磨(兵庫県)・安芸(広島県)・伊予(愛媛県)・讃岐(香川県)および阿波(徳島県)の五国に配置せられた者の子孫なりと称したということで、すなわち「景行天皇紀」五十一年の記事とは符号しますが、これと『姓氏録』と二つの記録は、ともに佐伯氏の録進に拠られたものと見えますから、この一致をもって強い証拠とするのは当りませぬ。おそらくは『釈日本紀』に引用する暦録の、佐祈毘(叫び)が佐伯と訛ったという言い伝えとともに、一箇の古い説明伝説と見るべきものでありましょう。
サヘキの名称は、多分は障碍という意味で、日本語だろうと思います。佐伯の住したのは、もちろん上に掲げた五箇国に止りませぬが、果して彼らの言の通り、蝦夷と種を同じくするか否かは、これらの書物以外の材料を集めてのちに、平静に論証する必要があるのであります。
(『山人考』 柳田國男 著 より )
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前九年・後三年の時代(前九年の役・後三年の役)に至って、ようやく完結を告げたところの東征西伐は、要するに国つ神同化の事業を意味していたと思う。東夷に比べると西国の先住民の方が、問題が小さかったように見えますが、豊後(大分県)・肥前(佐賀県・長崎県)・日向(宮崎県)等の『風土記』に、土蜘蛛退治の記事の多いことは、常陸(茨城県)・陸奥(青森県・岩手県)等に譲りませず、更に『続日本紀』の文武天皇二年の条には大宰府に勅して豊後の大野(現・豊後大野市)、肥後(熊本県)の鞠智(現・菊池市)、肥前(佐賀県)の基肄(基肄城)の三城を修繕せしめられた記事があります。これはもとより海寇の御備えでないことは、地形を一見なされたらすぐにわかります。土蜘蛛にはまた近畿地方に住した者もありました。『摂津風土記』の残篇にも記事があり、大和(奈良県)にはもとより国樔(くず)がおりました。国樔と土蜘蛛とは同じもののように、『常陸風土記(常陸国風土記)』には記してあります。
北東日本の開拓史をみますると、時代とともに次々に北に向って経営の歩を進め、しかも夷民の末と認むべき者が、今なお南部津軽の両半島の端の方だけに残っているために、通例世人の考えでは、すべての先住民は圧迫を受けて、北へ北へ引上げたように見ていますが、これは単純にそんな心持がするというのみで、学問上証明を遂げたものではないのです。少なくとも京畿以西に居住した異人等は、今ではただ漠然と、絶滅したようにみなされているがこれももとよりなんらの根拠なき推測であります。
(『山人考』 柳田國男 著 より )
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