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験を得るための道筋として、研がある。
そう簡単に験は得られない。観というものは改善点を見つけるだけである。験というものは改善された結果である。観と験の過程には、研が必要である。
研とはみがき、とぐことである。
包丁を研いでいるとわかるが、包丁の切れ味が良くなる。これが改善された結果である。改善するということが何かということがわかる。
包丁を研ぐことによって、砥石のへこみをまっすぐにする。まっすぐということが何かということがわかる。まっすぐが良いものだという認識を植えつけられる。そして、力を加えることによって、物質が変化する、又は現実が変化するということがわかる。
物事を改善することが研であり、乗じて物事の道理をきわめるとなる。
黒墨と水から墨汁を得るときに、黒墨を磨るが、これも包丁を研ぐことと同じだ。水がだんだんと墨汁になっていく。墨汁になったときに、やっと役に立つようになる。磨くことによって、役に立つようになる。鏡も玉もそうである。
磨という字を何度書いても気に食わない。まだ、吾輩が役に立つ人間ではないからだろう。自分を磨く必要がある。
磨は石をすりみがくことで、転じて物事に励むことを表す。
すりつぶすための石うすの意味であるが、石うすは粒を粉にする道具である。
現代人は、粉にするには叩きつぶして粉砕するから、木端微塵に人材が壊れてしまうが、古人は、粉にするには長い時間かけてすりつぶす。そういう粉は、きめが細かくて上質なものになる。つまり、役に立つようになるということだ。これも人材に当てはまる。身を粉にして働くということは、粉砕するという意味ではなく、長い時間をじっくりかけて役に立つ仕事をするということだ。
粒よりも粉のほうが消化によいから、粉のほうが改善された状態である。粉になれば、社会にとって消化のよい仕事をするから、社会が発展するのである。
磨励自彊
大いに修行して、みずからつとめはげむこと。彊とは強である。
吾輩の書道は、動的ではなく、精神修養のために行うものである。
万能一心。いくら多くの技能を身につけても、一つの精神統一した心には敵わないということである。
霧山人
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書包・霧山幻墨
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経験を重視すること。実際に試してみること。
観を得ることができたら、験に向かう。
実行に移して得られた成果を験という。
僉の部分は、多くの人が同一の真実を発言するの意味であるから、客観的事実を表す。
験は、吾国では、仏道修行や祈祷の効果の意味もある。
それが科学で、実験とか試験とかいう意味にも使われるようになった。
神道・仏教・儒教では観止まりである。
文明開化で得られたことは、この験なのである。
実際の効果・効能があるのは、科学的実験から得られたマニュアルである。
誰でも説明書を読めばわかるということが科学である。
しかし、実行に移すことが大事なのである。
実行に移しても、成功するか失敗するかはわからない。
なぜなら、そこ観で得られた良知と熟練した技術が伴わなければならないのだ。
良知は他人から学ぶことができるが、技術は自分で身につけるしかない。
これが20世紀の不幸である。21世紀の困難である。
成功したら、験を修めたということがいえるだろう。
霧山人
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悠塾の心得が少しでも理解できたならば、次の段階に進まねばなりません。
心得はあくまでも心得でありますから、それが現実に対してどうであるかを見極めねばなりません。
それが観なのです。
心の中での決心ができれば、現実を観る。つまり、観察するということです。
観察をすることなしに、現実を改善することはできない。
『易経』では、古代の聖王はあまねく四方を巡行し、民の風俗を観察し政教を設けたのである、とあります。
政教を設けるためには、観察しなければなりません。
『論語』という書物は、所詮、心を決めるところまでなのです。
観照という言葉があります。
よく見(考え)きわめて真理・真相を明らかにする。
主観をまじえず平静な心で深く見ること。
美を直接的に知覚認識すること。
明らかになるということは、次にどうすればよいのかが見えることでもあります。深く見るということは、未来が見えることを指しています。
仏の慧眼では、そこまで見通すことができます。
今回はここまでです。
霧山人
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