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仁愛という言葉が用いられなくなって久しい。
だが、利害関係でつくられる世の中は不平等なものである。
平等を建前として友愛を語るよりもはるかに現実味を帯びた言葉であった。
仁愛といい、仁義といわないのは、義を立てると絶対的正義という意味合いになるからだ。
儒教の朱子学的意義の仁義では、武力を用いても守らせねばならないものであった。
しかし、それでは徳目になりえない。徳目とは、自然と強制なしで行うことであるからだ。
朱子学というものは、中国王朝の秩序を維持するために、支配体制をつくるために、孔子の教えを戒律的
に束縛した学問であった。だから、江戸時代の儒学は、寛政異学の禁で朱子学以外を禁止にしたら、かえ
って世の中の自由を失い、行き詰まって幕末を生んだのである。それまでの儒学は自由な解釈がなされ、
孔子の人生を研究することによって、人の道を探そうというものもあった。
言論の自由が制限されていた江戸時代がある。また、明治時代も言論の自由は制限されていた。
戦前、明治大正、江戸時代を調べると、なんて暗澹たる時代だったんだと失望する。
仏教もまた、明治の廃仏毀釈で神道から分離された。
戦後の高度経済成長時代において、日本は文明開化に成功し、自由を勝ち取った。
アメリカは、古代中国の遺産である儒学が嫌いみたいだ。日本人は、体制イデオロギーとして、儒学を利
用するだろうか。いや、日本人はアイデンティティのために、儒学を用いないだろう。儒学の言葉を、生
活を活性化させるための徳目として使用するだけだろう。その筆頭が、仁愛なのである。親孝行とか、忠
誠とか、礼儀とか、コミュニケーションのツールとして、日本語の中に取り入れられているに過ぎないの
である。日本人の特性で、西洋文明を取り入れて、自分たちのものにし、カレンダーの中にクリスマスを
いれたりしている。王道という言葉は、もう現代の儒学の中に必要ない言葉である。民主主義の時代だか
らである。王になろうという権力志向が必要とされないことである。福澤諭吉は、儒学のイデオロギーに
よって、自国の独立を達しようとは考えなかった。それは、儒学が東洋唯一の思想であって、普遍的な広
がりをもっていなかったからだ。現代の世界的普遍性は、数字である貨幣によって統一されてきた。それ
は複雑な言語による文化によって、価値観を統一することを困難だとしたからである。だが、文化交流が
大事であるということは確実である。この厳しい世の中は、貨幣による統一性が、文化という多様性を押
しつぶし始めているからである。経済をビジネスと訳したが、ビジネスとは忙しいことを表し、経世済民
の意味とは違う本質のものであったのだ。忙しさは、競争原理を生み、ゆとりを奪い、自然淘汰を加速さ
せた。それは、ダーウィニズムの社会適用を意味していた。儒教の仁愛、仏の慈悲、キリスト教のチャリ
ティ然り、弱者を救済する上では一致し、その救済の思想がなければ、厳しい社会から溢れた者たちを生
存させることはできないのである。世界的普遍性においても、能力のある者が弱者を救済するということ
は共通なのである。共存共栄を破壊することは危険なことである。世界の共存共栄を進めるために、あえ
て仁愛という言葉を用いたい。
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